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― Metamorphose ―

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かんどう脳 ②

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言葉が胸を打つ! あなたの脳が震えだす!!


   第二話 金魚 ①

 主婦の千秋(ちあき)は仕事から帰ると、まず家中の窓を開ける。夏場、西向きのキッチンは夕方になっても照り返しがきつい。部屋の中にこもった熱気を抜くため、窓辺に扇風機を置き、換気扇を回して空気を循環させる。
 出来るだけクーラーはつけたくない、主婦としては節約を心掛けなければならない。
 汗が引いてきたら、お湯を沸かしコーヒーを準備する。ドリップコーヒーは自分だけのために買い置きしている。日頃はインスタントコーヒーを飲んでいるが、この時間帯だけは、今日一日頑張った自分自身に《ご苦労さん!》そんな思いを込めて、ちょっと贅沢なドリップコーヒーを飲むことにしている。
 猫舌で熱い飲みものが苦手な千秋だが、ゆっくりと冷ましながらコーヒーを啜るのが好きなのだ。キッチンのテーブルに腰を下ろし頬杖をつき、今日の出来事を思い返してみる。

 千秋はスーパーでレジ係の仕事をしているが、うっかり商品の値引きを忘れてお客を怒らせた。いくら謝ってもお客の怒りはおさまらない、そのあげく「店長を呼んでよ!」と大声で凄まれた。
 中年の主婦だが怒り方が尋常ではなかった。確かに値引きを忘れたのはこちらのミスだが、普通のお客なら謝って、差格分のお金を払えば許されるレベルのミスだったのだが――。
 たぶん、あの客は日常に不満があるのか、よほど虫の居所が悪かったのだろう。それで自分より弱い立場のレジ店員に当たり散らしたとしか思えなかった。とんだ災難だったと思いつつ、千秋はコーヒーをひと口啜った。

 ――すると、玄関の方でドアが開く音がした。その後、ガチャガチャと鍵をキーケースにしまう音が……夫の和哉(かずや)が会社から帰って来たようだ。
 今年、三十二歳になる主婦千秋の家族は、夫の和哉、五歳と三歳のやんちゃ盛りの男の子がふたり。夫は真面目な性格だがまったく面白味のない退屈な男だ。
 日々の生活が不幸というほどでもないけれど、なんだか満たされない、物足りない、何となくイライラしちゃう……ありふれた日常だが、こんなものだろうと納得しながら暮らしている。

「なんて早いの」
 壁の時計を見ると、まだ夕方の六時前。和哉の会社は製造業だが不況で受注が減ったせいで残業がなくなり、給料も大幅にダウンして家計は苦しい。おまけに、三年前に新築の分譲住宅を購入したため住宅ローンの返済もある。
 今年の春から家計を助けるために、千秋は五歳の長男を保育園に、三歳の次男を自分の実家に預けてパートの仕事に出ている。スーパーのレジ係だが午前十時から午後三時までのシフトである。
 仕事には慣れてきたが、勤務を終えてからスーパーで買い物を済ませ、保育園に長男を迎えに行って、実家に居る次男を連れて帰る日常。――それを毎日繰り返す。

 和哉の会社はバイクで片道三十分。五時に仕事が終わって真っすぐ帰ればこんな時間になる。たまにパチンコ店で時間を潰す日もあるが、負けが込んで軍資金がないのか、最近では特に帰りが早い。
 長男はテレビのアニメに釘付けで、次男はソファーで夕寝している。一日の中で主婦千秋がひとりだけになれるのわずかなとき……ホッとする間もなく、和哉のご帰還だ。夫が帰ってくれば、主婦である千秋は夕食の準備を始めなければならない。 チッと心の中で舌打ちをする。
「さてと……」
 まだ飲みかけのコーヒーをシンクに流して――。
 千秋はキッチンの前に立ちじゃがいもの皮を剥き始めた。そんな千秋を横目でチラッと見ながら……夫は何も言わずにリビングの奥の自分の定位置(ていいち)へと向かう。

 ――金魚の水槽がある。

 リビングのサイドボードの上に小さな水槽が置かれていて、中には三匹の金魚が泳いでいる。まだ、ふたりが新婚時代にお祭りの夜店ですくった金魚たちである。
 いわば『ふたりの愛の思い出』の金魚たちなのだが――かれこれ六、七年は生きている。金魚って小さい割には意外と長生き……それもそのはず、和哉がその金魚たちを、ことの他大事にしているのだから――。
 彼は会社から帰宅すると妻子をさておき、まず水槽の金魚たちに帰宅の挨拶をする。休日は朝から何時間もボーと水槽の前で金魚を眺めて過ごすこともある。

「パパ遊ぼうよ」
 長男がおもちゃを持って、一緒に遊ぼうとせがんでも……。
「後でな。向うへいってなさい」
 ……と取り合おうとしない。
 水槽の金魚の何が楽しいのか? ただ、ひたすら和哉は金魚に見入っている。
 和哉はどちらかというと無口で妻子とはあまり会話をしない。最近は特に口数が減ってきたような気がする。何が不満なのか知らないが……不満なら、こっちの方にもないわけではない、と言ってやりたい。
 相手に対して興味もなくしてしまい、うっとうしい存在でしかない。結婚して七年目……倦怠期ってやつかなぁー?
 かつて、この男を愛した記憶さえ曖昧になってきている。自分でもどこがよくて結婚したのかよく分からない。しょせん流れで一緒になったような気がする。
「つまらない男だわ」
 サイドボードの前に椅子を置いて、そこに腰掛けて金魚と会話している? そんな夫の後姿に、いいようのない嫌悪感を覚える千秋だった――。

 日曜日のお昼、千秋は子どもたちの大好きなオムライスをテーブルに並べた。
 五歳の長男はわんぱく盛り、いっときもジッとしていられない。家族四人でご飯を食べていると、三歳の次男と些細なことで兄弟けんかを始めた。千秋が長男を大声で叱りつけていると、横から和哉が「うるさい!」と不機嫌そうに怒鳴った。
 その声にムッとして千秋は和哉に言い返した。
「うるさいってなによ!」
「食事の時くらい静かにできないのか?」
「躾で叱っているんでしょう」
「おまえのはギャーギャーうるさいばかりで躾になってない」
「なによ! 父親なんだから、あなたも子どもの世話みたらどうなの?」
「躾っていうのは……」
 和哉が言いよどむと、千秋は畳みかけるように、
「金魚ばかり可愛がらないで、たまには子どもたちとも遊んでよっ!」
「俺は……」
「あたしにばっかり育児を押しつけて、自分は何にもしないくせに……」
「…………」
「父親としての自覚が足りないのよ!」
 その言葉に和哉は黙り込んで、ふいに立ち上がって外へ出ていった。

 口げんかの後、煙草を買いにいくと出ていったが……シンクで茶わんを洗いながら、千秋の腹の虫は収まらない。
 いつも都合が悪くなるとすぐに逃げるのよ、あの人は……。
 金魚ばかり可愛がって、自分の子どもには無関心、父親失格よ、あんな人! 何よりも気に入らないのは――自分だけ現実逃避しようとしている、あの態度よ。
 いつも水槽の金魚を眺めて、自分の世界に浸っている夫の姿を思い出して、千秋は無性に腹が立ってきた。
《あんな金魚なんか死んじゃえばいいんだ!》
 つい、千秋は手に持った食器用洗剤を水槽の中へ。
 数滴零したら、エアーポンプのせいで瞬く間に水槽の中は泡だらけになった。どんどん泡が膨らんで水槽から溢れ出してきた。思いがけない事態に焦った――その時になって千秋はえらいことをやってしまったと愕然とした。
 まずい! これは夫に怒られる。
 泡だらけの水槽の前で千秋が右往左往していると……。
 直後に帰宅した和哉が水槽を見た瞬間面食らって棒立ちになったが、急いで金魚を網ですくい、水槽の水を入れ替えた。――そして金魚たちを無事に水槽の中に戻した。
 すっかり片付いてから、怒気を含んだ声で和哉が千秋に訊いた。
「誰がやったんだ?」
「あ、あのう……」
「誰だ!?」
「……こ、子どものイタズラよ」
 怖い怒りの形相に、千秋は子供のイタズラだと咄嗟に嘘をついてしまった――。その途端、和哉は隣の部屋でアニメを見ていた長男の首根っこを掴んだ。なぜ長男かと言うと、三歳の次男ではサイドボードの上の水槽には手が届かないからだ。――それで犯人は五歳の長男と決め付けられた。
 有無を言わせず長男はお尻をおもいっきり引っ叩かれた。
 訳も分からず、父親に叱られ、殴られた長男は大声で泣いた。その後もいじけて、いつまでも泣いていたが……無実の罪で罰を受けた我が子の肩を抱いて、頭を撫でながら千秋は優しく慰めた。
《ごめんね、ごめんね……》
 翌日には、思いがけなく母親におもちゃを買って貰い大喜びの長男だったが、しかし、それが……せめてもの千秋の罪滅ぼしの品だとも知らず……。
 金魚ごときのことで長男のお尻を引っ叩いた夫を許せないと千秋は思っていた。金魚に八つ当たりした自分の罪も忘れて……憎らしい金魚め!
  いよいよ千秋の金魚への憎悪が増してきた。



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創作小説・詩

by utakatarennka | 2017-02-17 15:18 | 現代小説

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