Blood of Adam [アダムの血]
Blood of Adam [アダムの血]
神は女性に子供を産むことと、それに伴う痛みの罰を与えて男性に服従させ、
『おまえの望みはおまえの夫のものだ。そして彼はおまえを支配する。』と言った。
― 創世記3章3-16節 ―
都内の不動産業者に渋谷辺りでマンションを探して貰うことにした。
どのみち、この屋敷は広過ぎるので近々引っ越しする予定ではあったが、もう一日たりとて、ここに居られない気分になっていた。
適当な物件が見つかったと連絡を受けて、大急ぎで手荷物と簡単な荷造りをして、犬を連れて逃げるように引っ越しをしていった。
取り合えず、新居として渋谷の3LDKのマンションに落ち着くことになった。
ここからだと幹也のお店にも近いし、頻繁に会うこともできる。彼にはまだ内緒にしていたが二人の子どもが生まれる。今後のことも話し合いたいので、引っ越しが決まってから幹也に、二、三度メールを送ってみたが、マスコミを警戒しているのか電話もくれないし、メールの返信さえくれない。
昨夜、やっとメールの返信がきたかと思ったら、
『俺の料理番組がテレビ局で企画されて 忙しいので連絡できない。
銀座の店にも顔を出さないでくれ』
ずいぶんと素っ気ない。
――急に冷たくなった男に腹立たしさが込みあげてくる。
ヘアーサロンで読んだ女性週刊誌に、『タレントシェフ・河合幹也、アイドルM子と深夜の密会! 熱愛報道!!』と大きく紙面を飾っていた。
幹也とは会う度に、彼のからだから他の女の香水の匂いがする。おそらく、私以外にも多くの女を手玉に取っているのだろう。結局、資産家の妻のお金が目当てだったのか。神楽坂のお店が欲しくて愛している振りをしただけなのかもしれない。私はあの男に利用されていただけなんだ。
いろいろな現実が見えてきて、私は孤独感と保護者のいない心細さで壊れてしまいそうだった――。
自由はなかったけれど夫と暮らしていた頃には、こんな不安を感じることは一度もなかったのに……深夜に堪らず、独りで泣いてしまうこともあった。
こんな風に情緒不安定なのは妊娠しているせいだと思うが、夫を亡くして、日ごとに募る、この寂しさはなんだろう? 夫への不満は私の甘えだったのかもしれないと、今さら気づかされる愚かさ。
――連絡が取れなかった、河合幹也からメールが届いた。
『今夜8時に、いつものホテルで待っている』
急にどうしたことだろうと、訝しく思いながらも……以前、よく密会に使っていた港区にあるホテルに向った。
ここ数日で、憑きものが落ちたように、幹也への愛情が冷めてしまっている。今日会ったら、これを最後に別れる決心をして、ホテルの部屋の前に立っている。
お腹の子どものことは告げないでおこう。最初から一人で産んで一人で育てる、その覚悟だったから……。
ドアをノックしたが、返答がない。
さっき幹也からメールが届いて、ホテルの部屋番号を知らせてきたから、すでに先に着ている筈だ。よく見るとドアにライターのような物が挟んでいて少し開いている。
「幹也さん……」
ドアを押して室内に入ったら中は真っ暗だった。
「幹也さん、何処なの?」
微かに彼のいつも着けているオーデコロンの香りがした。
ふいに何者かに口を塞がれて、鳩尾にパンチを入れられグッタリしたところで、両側の頚動脈を押さえられて、私は気を失ってしまった。
霧の中に私は立っていた。
すると、誰かの声がした。
『ぼっちゃんの無念を思うと……あなたを許せません』
そんなことを言ったようだが、意識が朦朧として分からない。
あなたは誰なの? ぼっちゃんって……?
もしかしたら……あれは死神のような男の声だったかもしれない。
少しづつ、頭の中の霧が晴れて……意識を取り戻し始めていく――。
気が付いた私の目が最初に捉えたものは、ホテルの部屋の照明の灯りだった。
どうやらベッドに寝かされているようで、頭がクラクラする。起き上がろうとしたら手に何かを握らされていた。
それは血のついたナイフだった――そして、下着姿の私の身体にもべっとり血がついている。あれ? どこも痛くないのに。
……この血はいったい誰のもの?
半身を起こして見えたものは、ベッドの下で全身から血を流して息絶えている、河合幹也の姿だった。
パニックになった私は悲鳴を上げながら、そのままの格好で部屋の外に飛び出した。血まみれで下着姿の私は、ホテルの従業員たちに取り押えられて、警察へ通報された。
私は『河合幹也殺人事件』の容疑者として警察に逮捕された。
血まみれの下着姿で手にはナイフを握って、殺人現場から飛び出してきた私は、間違いなく犯人に見えることだろう。
いくら刑事に誰かに嵌められたと言い訳しても信じて貰えなかった。
二人が愛人関係だった事実も捜査の過程で明るみに出てきて、夫が不審死をしている件まで厳しく言及された。
幹也が誰に殺されたのか分からない。
私は殺していないと無実を叫んでも、誰も信じてくれない。厳しい取り調べに私は疲弊して、刑事の誘導尋問に引っかかり……ついにやってもいない罪を認めてしまった。
動機は、幹也に新しい恋人ができたことに嫉妬して、痴情怨恨に因るものとされた。
妊娠しているから、もうこれ以上は精神的にも肉体的にも耐えられない。罪を認めて、一日でも早く楽になりたかった。
裁判では、世間知らずの人妻が女癖の悪い男に騙されて、挙句の痴情の縺れによる殺人事件、幹也に関する女性トラブルが多かったせいか……思ったよりも罪は軽かった。
夫の事故死については証拠不十分で不起訴だった。
おそらく政治家の舅が、これ以上この事件が世間の好奇の的にならないよう、火消しに回ったのだろう。警察やマスコミ操作もあの人たちならやれるはずだから……。
以前、夫から聞いたことがある、舅には裏の仕事をする番犬みたいな人間がいること、子どもの頃、母親と自分はそういう男にずっと守られてきたのだと――。
裁判が終わり、懲役七年の刑で、私は刑務所に服役することになった。
とうとう囚人として赤ん坊を産む破目になってしまった――。
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