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2017年 11月 06日 ( 1 )

鳰の海 其の陸

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イラストはフリー素材 [ 四季の素材 十五夜 ] 様よりお借りしました。http://ju-goya.com/


   第六巻 幸せな姫君に

 瀬田の屋敷ではもうすぐ得度式が行われる。姫君と乳母は黒い法衣に身を包んで、石山寺から訪れる僧侶たちを待っていた。
 古(いにしえ)より『 髪は女の命 』という。その大事な髪を切り落とされてしまわれる。生まれた時から、ずっと伸ばし続けた黒髪は、こんなに艶やかで美しいのに……女の煩悩と共に切り落とされる所存なのだろうが、勿体ないことよ。……どうしても乳母の湖都夜には諦め切れなかった。
 その時、呟くように瑠璃姫が独り言をいった。
「最後の逢瀬の褥で、わたくしを北の方にすると、あの方がおっしゃったのに……あれは嘘だったの、兼通様」
 まだ未練が断てず、姫君は懊悩(おうのう)としておられる様子だった。
「もう、あんな男は忘れておしまいなさい」
 叱りつけるように、きつい口調で湖都夜が云ったら、その声に力なく項垂れ肩を震わせて忍び泣いておられる。痛ましいほどに打ちひしがれた姫君の様子に、乳母も胸が張り裂けんばかりで……。
 ――おのれ兼通め、わたくしの姫君をこんな目に合わせて……呪詛(じゅそ)してやるわ。
 おおよそ、今から授戒(じゅかい)を受けて出家する者が考えるようなことではない。それほどに湖都夜は悔しかったのだ。
「僧侶の方々がご到着なされました」
 知らせにきた侍女の目が赤い――。女主人の出家を悲しんで泣いていたのだ。瑠璃姫は高貴な身分なので、在家のままで出家修行者となる。だが、屋敷の主が尼になれば、華やかな祭事や道行とも無縁になってしまう。ひっそりと身を隠すようにして生きて行くのだから、もう訪れる人もいない。そのせいで侍女の何人かは暇を出されてしまうのだ。この屋敷が、あの頃のように華やぐことはもう二度とない。

 ――得度式が始まった。
 僧侶たちの荘厳な読経の中、瑠璃姫も合掌して念仏を唱えている。瞑目(めいもく)した美しい横顔は悲しみを湛(たた)えていた。ぬかづくように頭(こうべ)を垂れる姫君の黒髪を、僧侶がひと房掴むとついに剃髪の儀式が始まる。いよいよ剃刀を入れようとしていた。
「しばし、待たれよ」
 その時、声がした。どかどかと廊下を走りながら誰かが入ってきた。狩衣(かりぎぬ)姿の公達が息を切らせながら走り込んできたのだ。一同は驚いて儀式を中断した。
 その声に、頭を垂れて瞑目していた姫君が顔を上げた。目の前に現れた、愛しい男の姿に茫然としておられた。
「姫、わたしを見捨てて出家などしてはならぬ。ふたりは二世を誓った夫婦ではないか」
 瑠璃姫の肩を強く握ると、兼通は真っ直ぐにお顔を見てそうおっしゃった。声も出ぬまま、姫君の目からは、ただ、ただ滝のように涙が溢れていた。
「僧侶殿、誠に申し訳ないが、姫君は出家などなさらぬ。この藤原兼通の北の方になるお方ですから」
 そう宣言なさると、兼通は法衣姿の瑠璃姫をひょいと横抱きにしたままで、誰憚ることなく塗籠に入っていった。これから、この中でふたりは熱く語り合うのだろう。
 乳母の湖都夜は何が起きたのか分からぬまま、法衣姿で座っていた。兎に角、得度式は中断されて、僧侶たちも引き上げる支度をしていた。
 確か……、兼通殿が姫君を北の方にすると申された。右大臣家のご嫡男の北の方に瑠璃姫さまが、なんとまあ、名誉なこと、女冥利に尽きる。ほんのさっきまで、尼になるはずだった姫君が右大臣家の正妻の座に……すごい……衝撃の大きさに、乳母はその場で気を失った。
 侍女たちに介抱され、やっと気がついた時、御髪(おぐし)に手をやられて、
「髪があって良かったあ……」 と、乳母がおっしゃっられて、侍女たちはくすくす笑った。

 瑠璃姫と乳母は生まれ故郷、鳰の海を後に「瀬田の唐橋」を渡り、京の都、右大臣家の寝殿造りの北の対に住まうことになった。嫡男、藤原兼通の正室として迎え入れられたのだ。兼通は通っていた女人たちと別れられて、瑠璃姫様、おひとりだけを寵愛なされた。
 瀬田の姫君の玉の輿は、京(きょう)童(わらべ)たちの口の端に上がって、忽ち噂話になったが幸せな姫君だと誰もが羨み微笑んだ。父の近衛大将も大喜びしたが、その北の方だけは悔しがった。
 やがて、瑠璃姫は兼通との間に若君三人と姫君二人をもうけられた。若君たちは将来有望な公達として内裏で要職につかれた。二人の姫君の内のおひとりは入内(じゅだい)されて、中宮(ちゅうぐう)となり東宮(とうぐう)を挙げられた。もうひとりの姫君は左大臣家に嫁がれて、右大臣、藤原兼通の一族は栄華を誇った。
 そして瑠璃姫と兼通はいつまでも仲睦まじく、おしどり夫婦のままであった。瑠璃姫の傍らには、いつも乳母の湖都夜がいた。幼い頃から大事に育て上げた姫君の幸せは、すなわち乳母の幸せでもあったろう。
「姫君のお陰で乳母は幸せな一生でございました。ありがとう……」
年老いた乳母の湖都夜は、姫君とその家族に見守られて、天寿を全うし、眠るように静かに息を引き取られた。

 鳰の海や 秋の夜わたる あまを船 月にのりてや 浦つたふらん
                         (俊成女「玉葉集」)

 右大臣家の池には瀬田の里から持ってきた、葦(あし)が群生している。その葦の穂が風もないのに大きく揺れた、まるで天に向かって掌(て)を振るかのように――。そして、生まれ故郷の鳰の海を目指して飛び立った、ひとりの乳母の魂が「瀬田の唐橋」から、京の姫君に別れの挨拶をして、ゆっくりと昇天していったのである。


                 - 完 -

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 ■授戒《じゅかい》⇒ 仏門に入る者に師僧が戒律を授けること 。

 ■嫡男《ちゃくなん》⇒ 嫡男とは、嫡子(嫡嗣、ちゃくし)とも呼ばれ、一般に正室(正嫡)の生んだ 男子のうち最も年長の子を指す。
 長男と同一視されることも あるが、たとえ長男であっても側室の生んだ子である場合、正室の生んだ弟が嫡男となることもあることから、嫡男と長男は必ずしも同一ではない。

 ■入内《にゅうだい》⇒ 皇后・中宮・女御になる人が、儀礼 を整えて正式に内裏に入ること。

 ■東宮《とうぐう》⇒ 皇太子のこと。




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創作小説・詩

by utakatarennka | 2017-11-06 14:17 | 時代小説