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カテゴリ:現代小説( 54 )

RESET 21

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   最終章 リセットされた人生

 青い空、コバルトブルーの海、そして真っ白な砂浜。海を渡る暖かな潮風、この世の楽園のような島だ。
 ここ沖縄の離島に移り住んで、早一年になろうとしている。こちらの生活にもすっかり慣れて、色白だった啓子の肌は小麦色に日焼けして、健康的な島の娘になった。

 あの後、都会暮らしを捨てて、三人でこの島にやってきた。
 全ての財産を処分し、マンションは賃貸にして人に貸して、わずかな賃貸収入を得ている。
 この島で釣り船屋を経営している、宏明の大学時代の先輩を頼って、突如、都会から、この離島にやってきた三人を島の人々は最初は好奇の目で見ていたようである。
 たぶん、父親と娘とその子どもと思っていたようだが――真実は夫婦と夫の愛人なのだ。
 まあ、誰も信じないだろうけれど……。

 都会と違って、この島ではお金を使うこともない。
 宏明は小型の漁船を手に入れて漁にも出るし、啓子は庭で野菜やドラゴンフルーツを育てている。わずかな日用品以外、この島では何も要らない。
 お金も要らない、時計も要らない、そう、時はゆっくりと静かに流れていくのだ――。

「マンマ……」
 やっと、よちよち歩きを始めた、さっちゃんが、啓子に連れられて浜辺を散歩している。

 一歳になったばかりの幸恵は育てやすい赤ちゃんだった。
 あの時〔若返りカプセル・リセット〕を飲んだ幸恵は危篤状態から、反転、数日間昏々と眠り続け……ついに赤ん坊にまでリセットされてしまった。
〔若返りカプセル・リセット〕は、今まで、若返りカプセルの一年、五年、十年、二十年……と飲み続けた啓子が飲めば、おそらく元の年齢にもう一度、リセットされるシステムだったかもしれない。
 全く薬を飲んでいない幸恵だから、赤ん坊にまでリセットされてしまったようだ。――こうして赤ん坊から、また成長し始めているのだ。

 啓子たち三人はこの島にやってきたが、娘の愛美は都会に残って働いている。やっとデザイン事務所に就職が決まり、好きな絵を描いて生活しているようだ。三ヶ月に一度はこの島にやってきて、美しい自然と触れ合って癒されて、また都会へと帰っていく。

 アメリカに住んでいる長女の沙織には、何も事情を知らされていないが……。先日、パソコンにメールが届いて「夫の仕事の都合で、このままアメリカに半永住しそうです」と書いて寄こした。今の啓子の姿だと、とても長女には会えない、何しろ沙織よりも十歳は若い母親なのだから……。

 イタリアへ料理の修業にいく石浜に、一緒に付いていった奈緒美からもメールが届いた。先日、イタリアの教会で石浜とふたりきりで結婚式を挙げたらしい。今、奈緒美のお腹の中には石浜の赤ちゃんがいて、とても幸せだと書いていた。「これもみんな啓子ちゃんのお陰です!」とっても感謝されているみたい。妊婦なので禁酒させられているのが、ちょっと辛いなんて愚痴をこぼしていたが……石浜との愛を育んでいる奈緒美にとって、幸福な人生の始まりなんだと思う。

「キャッキャッ」
 白い砂浜に小さなヤドカリを見つけ、さっちゃんがはしゃいでいる。
「あらっ、ヤドカリさん見つけたの?」
 啓子も一緒にヤドカリを目で追っている。一歳になったばかりの幸恵は本当に可愛い。生まれ持った優しい性格が、もう育ち始めている。――決してヤドカリを捕まえようとはしない。
 かつては夫の愛人で憎むべき女だったが、もうそんなことを啓子は気にしない。
 今、この瞬間の幸恵が我が子のように愛おしいのだ。《幸恵さんはリセットされて、前の人生の記憶も失くしてしまったのかしら?》赤ん坊の幸恵に訊くことはできない。
 前の人生では……悲しいことばかりのあなたの人生だったけど、今度は宏明とわたしとで幸せな人生を送らせてあげたい! そう心の中で啓子は強く願っている。あなたが二十歳になったら、あの真珠の指輪をきっと返すからね。

 幸恵さん、あなたもわたしも新しい人生をリセットしたのよ!

 ――沖の方から漁船が一艘、島に向かって帰ってくるのが見えた。あれは宏明の乗った漁船である。
 海は静かだし《今日はどんな珍しい魚が獲れたかしら?》この島では、そんな呑気なことしか考えない。あぁー潮風が心地よい。
 さっちゃんを抱き上げて、漁船に向かって大きく手を振る。
「ヒロさーん!」
 すると、漁船の方から宏明も手を振って応えている。紅葉(もみじ)のようなちっちゃなお手々で、さっちゃんも一緒に手を振る。
 ――幸せな光に包まれた満ち足りた時間が、ゆっくりと流れていく。この島は、わたしたちの新しい人生のための楽園なのだ。

 不思議なリセット〔若返りカプセル〕は、たぶん人生を考え直すために、神様が、啓子にかけた魔法なのかもしれない。
 この奇跡がいつまでも続きますように――。


― RESET 完結 ―







創作小説・詩

by utakatarennka | 2017-06-18 21:27 | 現代小説

RESET ⑳

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   第二十章 啓子の選択肢

 家に帰ってきた母啓子の様子がおかしい。
 すっかりしょげて……元気がない。父のアパートで何かあったのだろうか?
「愛美ちゃん、お母さんもうダメかもしれない……」
 そういって、ため息をついて黙り込んだ啓子である。
「どしたの? ねぇー、何があったの?」
 こんな沈んだ母の姿を見たことがない……。
 いつも元気で天然だけが取り柄だった、あの母が深刻な顔で考え込んでいた。何を訊いても、「うん……うん……」と生返事ばかり、すっかり自分の殻に閉じ籠ってしまっている。

 今日、幸恵の思わぬ懺悔を聞いて、啓子はひどく動揺して悩んでしまった。
 離婚届けには絶対に判子を押さないつもりだったが……あの幸恵の言葉ですべて赦して、宏明の『妻の座』を譲ってもいいとさえ思った。
 最後に幸恵さんを幸せにしてあげたい! 
 死に逝く人への餞(はなむけ)に離婚届けに判子を押してもいいと啓子は思っていた。愚かな選択肢かも知れないが……もう、自分は宏明に頼らなくても、生きていけそうだと思い始めている。娘の愛美も当分はお嫁にいきそうにもないし、母娘水いらず、しみじみ暮らしていこうか。
 ――そんな気持ちに啓子はなってしまった。

 そして、今日も宏明の住むアパートを啓子は訪ねた。
 トントンとノックをするが返事がない。しばらく戸口で待っていると、ようやくドアを開いた。やっと部屋から出てきた宏明は、かなり疲労困憊していた。
「昨夜から……幸恵が重体なんだ」
 そういって、眠そうに目を擦った。今は強い鎮痛剤で幸恵は眠っているらしい。
「なにか食べたの?」
 目の下に隈が出来ている、一晩中付きっきりで看病していたようだ。やっと幸恵の容態が落ち着いて、ウトウトと……仮眠していた最中に啓子が訪問したのだ。
「いや……何も……食ってない」
「そう、ちょっと待っててね!」
 部屋に上がってきた啓子は、タッパに入ったものをレンジで温めた。それを食器に移してキッチンのテーブルに置くと、
「さあー、召しあがれ」
「おや、ビーフシチューじゃないか」
「食べてみて!」
 宏明は大きなスプーンでビーブシチューを掬いあげて口に運んだ。
「…………」
 黙って、味わっているようだ。
「……どう?」
「…………」
 もうひと匙、口にふくんだ。
「美味しい?」
 宏明は静かにスプーンを置いた。
「……啓子……か?」
「あなた……」
「君は……啓子なのか?」
「そうよ」
「なぜだ……?」

 ――啓子のビーフシチュー。
 それは啓子にしか作れない味だった。長い結婚生活で作りあげた家庭の味、そこには啓子の家族への愛が込められていた。ひと口食べれば分かる家族だけの味覚なのだ。
 その後、啓子は若返った経緯(いきさつ)を手短に説明した。非常に驚いた宏明だが、ひと目見た時からケイちゃんが昔の啓子にソックリなので、他人の空似にしても似過ぎていると、不思議に思っていたらしい。

「今日、あなたに渡すものがあって来たのよ」
 ハンドバッグの中から、封筒を手渡した。
 封筒の中身を取り出した宏明は、驚いて啓子の顔を見た。それは離婚届の用紙だった。きちんと啓子の署名と判子が押してあった。
「いいのか?」
「……はい」
「すまない」
「幸恵さんを籍に入れてあげてください」
「啓子……」
「若返ったことだし。わたしだって新しい相手を探します」
 宏明を見て、啓子が薄く笑った。
「啓子、すまない……。なあ、分かってくれ……。人の生きる意味ってなんだ? 大事な人を幸せにすることじゃないのか? 俺はやっと気がついたんだ。金じゃない、物じゃない。――人は心でしか人を幸せにはできないんだ!」
「ええ……そうだと思う」
「俺は決めたんだ。この不幸な人生しか生きてこれなかった女を、最後に幸せにしてやるんだと……」
「…………」
 宏明の熱い決意を、啓子は複雑な気持ちで聞いていたが――。
「幸恵さんにあなたが必要だと分かっています」
 冷静な声で啓子は話す。彼女なりに人間として成長したのかもしれない。
「人生はリセットできないんだ。だから……今、この瞬間だけでも『幸せ』だと思って、幸恵を死なせてやりたいんだ。――これは俺の彼女への罪滅ぼしだから……啓子許してくれ!」
 そういって、宏明は深々と頭を下げて詫びた。
 今の啓子なら、宏明が幸恵さんを幸せにしてあげたい気持ちも分かってあげられる。

「そんなの認めないからっ!」
 いきなり声が聴こえた。
 宏明と啓子が驚いて振り向くと玄関に愛美が立っていた。いったい、何時からそこに居たんだろう? いつもの冷静な愛美と違って泣きそうな顔でふたりに訴えている。
「離婚なんて、あたしが認めない!」
「愛美……どうして、ここへ?」
「お母さんの様子が心配だったから……後をつけてきた」
「ゴメンね。もうお父さんと離婚するって決めたの」
「――そんな大事なことを、自分たちだけで決めないでよ」
「すまん! 父さんが全部悪いんだ」
 頭を下げて宏明が詫びると、
「お父さんの過去の懺悔のために、わたしたち家族は捨てられる? そんなの自己中じゃない?」
「…………」
 娘の言葉に寓の音もでない。
「イヤだよ! お父さんとお母さんが別れたら、あたしはどっちの親を選べばいいの? 親を選ぶなんて、そんなことできないよ!」
「愛美ちゃん……」
 その言葉には啓子も切なくなった。
「あたしもお姉ちゃんも親がいなくても生きていける歳だけど……家族という塊を壊したくないよ。そんなの悲しいよ……離婚したらイヤだよう!」
 愛美が泣きだした。
 離婚は自分たちだけの問題ではない。子どもの心まで傷つけるのはさすがに啓子には辛過ぎる。せっかく心を決めて、ここにきたのに……また心が揺れる。――どうしたらいいんだろうか? 宏明も愛美の言葉に衝撃を受けたようで、口を一文字に結んで押し黙ったままである。
「ダメだよ、お父さんもお母さんも離婚なんて……しないでよう……」
 しゃくりをあげて愛美が泣いていた。

「……コウちゃん」
 隣の部屋から幸恵の声がした。静かに立ち上がって宏明が様子を見にいく。
「幸恵、大丈夫か……」
「コ、コウちゃんのミニカー……」
 幸恵は息も荒く苦しそうで、うわ言を喋っている。もうこれ以上は自宅での看護は到底無理だ。
「ミニカー買って……い……く……」
「おいっ、幸恵!」
「幸恵さん、しっかりして!」
 いよいよ危険な状態だ。
 このまま昏睡状態に陥ったら意識が戻らないままで逝ってしまうかもしれない。《どうか死なないで! 幸恵さん》啓子は心の中で祈っていた。
 ――その時、啓子はふとアレの存在を思い出した。
 そうだ! アレを使うしかない。ダメ元でも試してみる価値がある!

「愛美、あんたスクーターできたの?」
「うん」
「今すぐ、家に帰ってあの薬を取ってきてちょうだい。お母さんのあの薬を……キッチンのテーブルの上に置いてあるから!」
「えぇー! あの薬って、まさか? お母さんどうするつもりなの」
「いいからっ! 今すぐ取ってきてちょうだい!」
 いつになく厳しい口調の啓子に、愛美はそれ以上訊かずに「分かった」と家までスクーターで薬を取りに行ってくれた。
《どの道……このままでは幸恵さんは死んでしまう》もしかしたら、あの薬で奇跡が起こるかもしれない。――これは最後の賭けなんだ!

 まだ幸恵の息がある内に急がないと……。
 最後の希望〔若返りカプセル・リセット〕に賭けてみようと啓子は思った。そして、愛美が家から急いで持ってきた〔若返りカプセル・リセット〕を、幸恵の口に入れると、無理やり水で喉の奥に流し込んだ。
 宏明は啓子が何を始めたのか、オロオロしながら見ていたが……。啓子の真剣な表情に何も言えずにいる。愛美も押し黙って、ただ母の行動を見ていた。

「幸恵さん、あなたの人生をリセットしてあげる!」

 ――ようやく呼吸が落ち着いて……幸恵は昏々と眠り始めた。







創作小説・詩

by utakatarennka | 2017-06-18 21:24 | 現代小説

RESET ⑲

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   第十九章 啓子の進むべき道

 マンションまで歩いて約一時間の道のりも、二十歳の啓子の足では丁度良いウォーキングコースだ。
 五十五歳だった頃の啓子は三十分歩くのもキツイ時もあった。関節を痛めてからは、さらに歩くのが億劫だったが、今、自分は健康を満喫している。《若いって素晴らしいわ!》健康も若さも失くしてみて、初めてその価値が分かるものなのだ。
 不思議な薬〔若返りカプセル〕で手に入れた。――この若さと健康に啓子は感謝していた。

 マンションに帰って、愛美に今日のことを話した。
 啓子にとって愛美は唯一の相談相手で、感情が先走る自分の良きアドバイザーでもある。 
 さすがに『コウちゃん』という異母兄弟の話をする時は話し辛かったが、「そうなの……」と以外と軽く受け止められた。その反応に《ホント、この子ってクールだわ!》啓子は呆れた。
 ……だが、それなりに愛美もショックを受けていたのだ。
 自分の中で父親像が崩れていくようで本当は悲しかったけど……自分が動揺すると、この天然母の感情に油を注ぐことになると思って、あえて平静を装っていただけで、弟がいたこと、そしてその子がすでに死んでしまっていることなど……仰天の新事実に、愛美もかなり動揺していた。

「結局、お母さんはどうしたいの?」
「お父さんのこと? 自分でも分からないの。でも心配だから様子を見にいく」
「一緒に居る女の人に嫉妬しない?」
「たしかに悔しいけど……病気が重くて死にそうだから……可哀相だと思う」
「その人が死んだらお父さんが帰って来ると思う?」
「それは分からない。幸恵さんが好きで家を出でいったのか、わたしが嫌いであっちにいったのか、どっちか分からないんだもの」
「お母さんも変な薬飲んで若返っちゃって、お父さんと普通に対面できないもんね」
 あまりにも若返り過ぎた啓子は、もう知り合いとは誰にも会えない。
「そうなのよ。わたしだって、この先どうなるか、分からないし……」
「その薬って、いつまで効果が続くんだろうか?」
「分からない」
 ――分からないことだらけで、母娘してため息をついた。

 翌日は、お昼過ぎに宏明のアパートを訪問した。狭いアパートで病人と、一日中一緒にいる宏明は、啓子の訪問をことのほか喜んでくれた。
 そして冷蔵庫から買い置きの缶コーヒーを渡してくれる。ちらっと覗いた冷蔵庫の中は缶詰やレトルト食品ばかりが入っていた。《ちゃんとしたもの食べてるのかなぁー?》妻の気持ちで啓子は心配になった。
「ケイちゃん、来てくれてありがとう。ヒロさんが退屈してるから、話し相手になってあげて……」
 隣の部屋から幸恵が言った。
 今日は薬臭いお部屋が、良い香りがするように、鎮静効果のあるローズマリーのポプリを持ってきたが、病人には、この香りが強過ぎないか少し心配だった。
「この香り、大丈夫ですか?」
「ローズマリーの香りね。シャンプーにも入ってるから好きな香りよ」
「良かったぁー」
「ケイちゃん優しい……」
「……いえいえ」
 幸恵に「優しい」と言われ、複雑な心境で曖昧に笑った。この人が夫の愛人でなければ、決して嫌いなタイプの人ではないと思うのだが……。
「ケイちゃん、実は頼みがあるんだが……」
 ひどく恐縮しながら宏明が、啓子に話しかけた。
「えっ? なんですか?」
「しばらく散髪にいってないんだ。散髪にいっている間、幸恵の様子を見ていて貰えないだろうか?」
 いつも身なりの良い、宏明の髪が伸びてボサボサになっている。きっと本人は気になってしょうがないはずだ。そういうところが昔から几帳面な男なのだ。
「はい。いいですよぉー」
「そうかい。それは有難い!」
 よほど気になっていたのか、宏明はすぐ様、支度すると急いで出掛けていった。

 狭い部屋の中で幸恵と啓子はふたりきりになった。
 なんだか啓子の方が緊張してしまう。自分は本妻なんだから、堂々としていればいいものを啓子はドギマギして身の置きどころがない。
 ……この沈黙が肌にピリピリと痛く感じてしまう。男女の修羅場を経験したことがない啓子は小心者なのだ。
「あのー、喉渇きません?」
「……おねがい」
 目を瞑ったまま幸恵がか細い声でいう。
 ストローのついたマグカップを持って来て、幸恵の口に含ませる。少しだけ飲んでから、もう要らないとイヤイヤをした。
 見ているだけでも辛くなるほど衰弱した病人、本当は憎い女だけど……自分とさほど歳が変わらないというのに……もう死んでしまうなんて、可哀相すぎると啓子は思ってしまう。
 たとえば今なら……この人にどんな酷いことだってできるだろう。だが、そんなこと啓子にはできない。
「ヒロさん……」
「えっ?」
「良い人やから……うちみたいな者のために……家庭も会社も捨ててしまった……」
 急に何を思ってか? 幸恵がひとりでしゃべり出した。
「どうせ、うちは死ぬんやから……放って置いて言うたのに……俺のせいで不幸な人生になったと言うんや……けど、違う!」
「…………」
 幸恵は何を話そうとしているのだろうか?
「ヒロさんの奥さんに申し訳ない……」
「……ええ?」
「二十年前にヒロさんの子どもを勝手に産んだから、うちは罰が当たったんや……」
「それは……」
「不倫の子やけど……うちは子どもが欲しくて……欲しくて仕方なかった。――ヒロさんにも、奥さんにも、バレないように隠れて産んだんや、コウちゃん……けど五歳で死なせてしまった……不憫な子やった。うちみたいなアホなもんが親やったばかりに……」
 幸恵の頬に涙が伝って零れた。
「そんなことない! コウちゃんは、幸恵さん愛されて、この世に生を受けたんだから……そんなに自分を責めないで!」
 思わず、啓子はそういって慰めた。
「……うちはずっとヒロさんの奥さんに、心の中で詫びてたんや」
「…………」
 いったい、幸恵は何を言うつもりだろう。
「これだけは分かって欲しい。うちは奥さんからヒロさんを奪おうなんて、一度も思ったことはない! ヒロさんのためにも、奥さんとは別れないで欲しいって思ってから……」
「……幸恵さん」
 なぜ? なぜ、見ず知らずのケイちゃんのわたしに、そんな話を幸恵はするのだろう?
 不思議だ、まるで啓子に聞かせるために話しているようで不思議でならない。死を悟って、誰かに懺悔を聞いて貰いたいのだろうか?
 死病のせいで幸恵には霊感みたいなものが――現れたのかもしれない。
 もしかして《わたしのことが分かっているの?》そんな気さえする。
「奥さん、堪忍な……堪忍な……」
 はらはらと幸恵涙を流す。憎んでいた相手だが、今は不憫で仕方がない。
「もういいから泣かないで……幸恵さん」
 啓子はハンカチで幸恵の涙を拭った。
 死期が迫って……自分に詫びてくれた、この不幸な女性に、これ以上鞭打つことも、憎むことも、もはやできなくなった。甘いと言われようが、お人好しと笑われようが……幸恵のことを心底憎めない啓子だった。
 ……気づけば啓子も幸恵の手を握って、一緒に泣いていた。







創作小説・詩

by utakatarennka | 2017-06-18 20:50 | 現代小説

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   第十八章 幸恵からの贈り物

「きれいなお花ありがとう」
 隣の部屋のベッドから小さな声がした、幸恵の声だ。
「あー、さっきはごめんなさい。突然帰っちゃって……」
「戻ってきてくれて……良かったわ……」
 とても弱々しい声……。
「せっかくだから、幸恵にも挨拶していってくれよ」
 そういわれて、宏明に付いて幸恵が寝ている部屋に入った。病人はベッドで点滴をしながら寝かされていた。

 ――この女がっ!
 一瞬、啓子の中に憎しみの感情が、突き上げてきたが……。
 先日、チラッと見た時よりもさらに痩せ細って幸恵はかなり衰弱していた……もう余命幾ばくもないことは見てとれる。
「きれいなお嬢さん」
「…………」
「いくつ?」
「二十歳」
「二十歳……コウちゃんが生きていたら……今、二十歳だよ」
 死んだ子どもの歳を数えている。愚かなことと分かっていても、子を亡くした親ならば死まで、その子の歳を数え続ける――。
 啓子も流産と死産で我が子を二人亡くしているから、幸恵の気持ちは痛いほどよく分かる。
 同情が先に立って、どうしても憎むべき相手なのに憎めない。こんな状態の幸恵を捨てて、宏明にも家に帰ってくれなんて……とても言い出せない。しょせん、お人好しの啓子である。
 ……死んだ子が二十歳ってことは、二十年前か……やはり北陸に出向していた頃からの関係だったんだ――。
 今にして思えば、子どもたちのことを優先して北陸についていかなかった啓子も悪い。
 あの当時、会社からも家族からも見捨てられて、宏明は孤独だったに違いない。傷心の宏明を慰めてくれたのは、他ならぬ幸恵なのだ。その後、本社に戻ってから部長にまで出世できたのは、北陸時代の幸恵の支えがあったからかもしれない。
 そう考えれば……何も求めず、自分から身を引いた、この幸恵という人を恨むことはできないと啓子は思った。

「おばさん……痛いことないですか?」
 あまりに痛々しい幸恵の姿に、思わず啓子は訊いた。
「ううん。とても強いお薬で抑えているから……痛くないのよ」
 そういって、幸恵は弱々しく笑った。
「病院に入院するように、いくら言って聞かせても利かないんだよ。この人は……」
 横から宏明が口を挟んだ。
「病院で死ぬには嫌! ヒロさんやコウちゃんの傍で死にたい……」
「…………」
 幸恵の頑とした決意に、啓子は言葉を失った。
「この人は若い時から、ずっと苦労してひとりで生きてきた人なんだ。――だから最後に我がままを通させてやりたいんだ」
 死を覚悟した病人の我がままに、誰もあがなうことなどできない。
「ヒロさん……この娘さんに……」
「あのー、わたしケイです」
「そう、ケイちゃんにあれをあげてください」
「あれって……? あぁー分かった!」
 宏明は立ち上がって、小さな鏡台の引き出しから小箱を持ってきた。蓋を開けると真珠の指輪が入っていた。
「もし……迷惑じゃなかったら……この指輪もらって下さいな……」
「えぇー?」
「娘がいないので……形見にもらって欲しいの。お花のお礼として……」
「……そんな、どうしよう」
「ケイちゃん、頼むから幸恵の指輪もらってやってくれよ」
 いきなり高価な指輪をあげると言われても、どう返答したらいいのか困ってしまう。
 しかも、啓子は本妻なのに……夫の愛人から『形見』貰うなんて前代未聞である。すがるような目で幸恵がこっちを見ている、「いらない」とは言えない空気だった。

 アパートからの帰り道、幸恵からもらった真珠の指輪が入った箱を手に持って、啓子は複雑な心境だ。――この指輪が宏明からのプレゼントだったとしたら突き返してやろうと思ったが……それは幼い頃に亡くなった幸恵の母親の形見の品だという。
 大事な指輪なので、誰かに持っていて欲しいと懇願された。
 ――なぜ? わたしに?
 前から親しい奈緒美でもなく、どうして、わたし、なんだろう?
 この指輪を持っていて、いいものかどうか? 捨てるに捨てられず啓子は悩んだ。とにかく、もう少しふたりの様子を見ていたいので、「またお邪魔しまーす」と言って帰ってきたが……。
 なぜ、この指輪をわたしが? 不思議で仕方がない啓子だった――。







創作小説・詩

by utakatarennka | 2017-06-17 20:47 | 現代小説

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   第十七章 挫けないで! 啓子

 マンションで啓子は娘の愛美と母子家庭のような生活をしている。
 娘は母を心配してワンルームマンションの自分の部屋から、ずっと自宅に居続けてくれている。母と娘だけの気楽な暮らしだが、大きく違うのは母親が二十歳で娘より年下に見えることである。
 時々、どっちが親か子か分からなくなるけど……夫がいない今、愛美の存在は啓子の心の支えだった。

 いつも三時になると母娘でティータイムを楽しんでいる。
 紅茶好きの愛美がティーポットで美味しいお紅茶を入れてくれる。その日の気分でアッサムだったり、ダージリンだったりメニューは変わる――今日はアールグレイとコンビニで買ったスイーツだった。
 シフォンケーキをフォークで崩しながら、何気なく啓子が訊いた。
「ねぇー、愛美は彼氏っていないの?」
「……ん?」
 フォークでケーキを口に運んでいた愛美がなぜという顔で啓子を見た。
「あんたって、男の人にあんまり興味なさそうだし……」
「失礼ね! 彼氏じゃないけどボーイフレドぐらいならいる」
「そう。いろいろ付き合ってから結婚相手を選んだ方がいいよ」
「なによ? それって、お母さんはお父さんを選んだこと、後悔してるってことなんだ」
「そうじゃないけど……お母さんはお父さんしか知らないから。他と比べられないのよ」
「お母さんって『箱入り奥様』だもんね」
 ウフフッと愛美が笑った。
 たしかに啓子は男といえば宏明しか知らなくて……それで良かったのか? 悪かったのか? 判断する材料もない――。
 今になって、もっと遊んでから結婚相手を決めれば良かったとつくづく思っている。

「ところで、お父さんの様子はどうなの?」
「うーん……。とても戻って来れそうもないみたい」
「お母さんは、そんなんでいいの? 他所で女の人と暮らしてるお父さんを許せるの?」
「……相手は病人だし、なんか事情がありそうで、とても踏み込めないわ」
「お母さんって、お人好しね!」
「その女の人に酷いこと言って、お父さんに嫌われたくないし……」
「嫌われたくないってことは……まだ、お父さんが好きなんだぁー!」
「……そうかなぁー?」
「お母さんって、ホント可愛い人だわ」
 キャハハと愛美が笑った。
「親をからかうんじゃありません!」
 プイッと怒った振りをした啓子に、愛美はお代わり紅茶をポットで注いでくれる。こんな母娘の暮らしも悪くないかなぁーと思い始めている。

 ――あの日、公園で見たのは、宏明の孤独な後ろ姿だった。
 あの背中には無理やり《全てを捨てしまおう!》とする。何か強い意思を感じ取った。きっと夫はあの女性が亡くなっても、自分たちの元へもう帰って来ないような……そんな気がしてならない。
 どうして夫が妻や家族を捨てる気持ちになったのか、その理由を啓子は知りたい。本当の理由が分かるまでは、離婚届けに判子を押すべきか、破り捨てるべきか判断ができないでいる。

 翌日、啓子はショッピングモール街の花屋で、薄紫のトルコ桔梗とカスミ草で小さな花束を作って貰い、それを持って宏明のアパートを訪ねることにした。
 宏明のアパートの部屋の前に立つと、急に胸がドキドキして迷ったが、勇気を出してドアをノックした。啓子にとって、これは敵陣に乗り込むような気構えだった。
 ややもすると、中から「はい……」と低い男の返事がした、宏明の声である。ドアを細めに開けると。
「どなた?」
「こんにちは」
「あぁー、君か?」
「お見舞いに来ました」
 さっと花束を目の前に突き出した。
「やっ、ありがとう。病人が寝ているから静かに入ってくれよ」
 そういって、宏明はドアを開けて中に入れてくれた。二階の奈緒美の部屋と全く同じ作りだが、この部屋はひどく寂しい感じがする。壁にはカレンダーしか掛かっておらず、殺風景でどこか仮住まい風だった。薬臭い匂いもする。奥の間のベッドで病人が眠っているようだ。
 1Kのキッチンの椅子に座るように勧められて、何もないからと冷蔵庫から缶コーヒーを出して手渡してくれた。見ればシンクの周りの洗い物もきれいに片付いていて、たぶん宏明が洗ったのだろうか? 家ではいっさい家事を手伝わない人だったくせに……。
 三十年も連れ添った夫なのに、すべてが新鮮な驚きだった――。

「花、ありがとうね」
「いいえー」
「花瓶ってあるかなぁー?」
 宏明はシンクの下の扉を開けて、ごそごそと中を探している。
「あのー、大きなコップでもいいけど」
「うん、そうだね。これでいいかな?」
 ジョッキのような大きなマグカップを宏明は手に持っていた。
「ええ。お花はあたしがやりますから」
 思わず立ち上がって、マグカップを受け取り、シンクに立って啓子は花を挿した。トルコ桔梗が清々しくきれいだった。
「薄紫の桔梗。その色は幸恵が特に好きな色なんだ」
「そうなんですか?」
「後で病人が見える場所に花を飾って置くよ」
「ええ……」
 嬉しそうに花を眺める宏明、《あの人には優しいのね……》啓子は病人には嫉妬しないように自分を抑えていたが、夫が女性に優しくするのを見ると、やはり嫉妬の炎がメラメラ燃えてくる。

「ヒロさん……」
 蚊の鳴くような小さな声で病人が呼んだ。宏明は立ち上がって、病人のベッドの傍までにいった。
「幸恵、起きたのかい」
「ヒロさん、あのね……」
「どうした?」
「コウちゃんの夢をみたの……」
「宏司(こうじ)の夢を……?」
「うん、あの子が夢の中で……、お母さん約束していたミニカー早く買ってきてよ。って、駄々をこねるんです」
「そうか……」
「だから……もうすぐお母さんもコウちゃんの元へいくから、その時にミニカーを買っていくからと言ったんです」
「……幸恵」
「そしたら、あの子、嬉しそうにお母さん早くきてねって……」
「もう、いいよ。幸恵そんな悲しいことは……頼むから言わないでくれ……」
「ヒロさん、わたし……死ぬのなんて怖くないよ。もし、来世があるなら一度死んで生まれ変わりたいの」
「幸恵……」
 絶句してうな垂れる宏明……。
 どうやら、ふたりは子どもの話をしているようだ。《コウジ?》誰だろう? 幸恵のベッドの傍に小さな仏壇が置かれている。あの位牌が死んだ子どもかしら? 《コウジ?》もしかしたら、夫と幸恵さんの間にできた子どもかも? ふたりの会話を聴いて、憶測だけど……そんな気がする。
 知りたくない事実に、頭がクラクラして、目の前が真っ暗になった。啓子の全身を衝撃が駆け抜けていく――。

 その場に居たたまれなくなった……今にも啓子は泣き出しそうだった。
「あ、あのー、起こしちゃってごめんない。わたし帰ります」
 そういって、立ち上がって帰りかけたら……。
「待って……」
 幸恵が止めた。
「ケイちゃん、せっかく来たんだから、幸恵にも挨拶してからにしてくれよ」
 ふたりに引き留められたが、
「…………」
 振り向きたくなかった、泣きそうな顔を見られるのは嫌だった。
 涙腺はもう一分もたないだろう。涙が零れ落ちる前に、慌てて後ろ手でドアを閉めて、逃げるように駆け出した。
 しばらく走ると宏明がベンチに座っていたあの公園があったので、そのベンチに座って啓子はひとりで泣いた。
 夫があの女性との間に子どもまで作っていたことがショックだった。まさか、そこまで深い関係だとは思ってもみなかった。さすがに動揺した、自分が惨めだった……。拭っても、拭っても……涙が止まらない。
 あの状況から考えて……おそらく夫はわたしの元には帰って来ないだろう。たとえ、帰って来たとしても……心は幸恵さんのものだし、抜け殻みたいになった宏明なんか見たくもないわ。
 だけど、全てを受け入れて前に進もうと誓ったのに、こんな所で逃げ出してはいけない……。
 もう泣かない《逃げたら負けよ!》啓子は意気地なしの自分を叱りつけた。

「きれいな桔梗ですね」
「うん、さっきの娘さんがお見舞いに持ってきてくれたんだよ」
 ベッドに寝ている幸恵から、よく見える場所に宏明は花を飾った。
「まだお礼も言ってないわ」
「どうしたのかな? 急に帰ったから……」
「なにか……気を悪くしたのかしら?」
「さぁー、何だか不思議な娘だよ。あははっ」
 その時、トントントン……と遠慮がちにドアを叩く音がした。
「あれ? 誰だろう」
 宏明は立ち上がって、玄関にドアを開けにいった。
「はい。どなたですか?」
「あのー、ケイです。さっきはすみません」
「ケイちゃんかい?」
 宏明がドアを開けたら、バツの悪そうな顔で啓子が立っていた。
 もう逃げ出さないで、全てを見定るつもりの啓子は再び戻ってきたのだ。相手の女性のことも知りたい。なぜ宏明が家庭も会社も捨てて、この女性を選んだのか、その本当の理由が知りたかった。
「さっきはどうしたんだい?」
 部屋に入ってきた啓子に宏明が訊ねた。
「携帯が……」
「携帯?」
「ショッピングモールでお買物した時に、お店に忘れてきたことに気づいて……慌てて取りにいってきたんです」
 そんな言い訳を公園のベンチで啓子は考えてきたのだ。
「若い人は携帯がないと不自由で困るんだよなぁー」
「はい」
「そういえば……俺の娘もしょっちゅう携帯電話をイジっている」
 そうそう。愛美は食事中も携帯をイジってるわ。何度、注意しても止めないし……。
 啓子は愛美に言われて、新しい携帯に買い替えてみたが、機能が複雑過ぎて使いこなせず……やっぱし楽らくフォンの方が使いやすくて良かったと、今は後悔している啓子なのだ。







創作小説・詩

by utakatarennka | 2017-06-17 20:33 | 現代小説

RESET ⑯

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   第十六章 すれ違う、心とこころ

 宏明が〔離婚届〕の用紙を啓子に送ってきて半月ほど過ぎたが、あれから一度も家に連絡を寄こさないし、催促もしてこない。たぶん病人の世話で、そんな余裕もないのかもしれない。
 病気の女性を献身的に世話している宏明に、今すぐ家に帰れとは言えない。。啓子は天然だけど、病人に嫉妬するほど人間は小さくない。
 先日、スーパーで少しだけ宏明と話すことができたが、目の前の二十代の女の子をまさか妻だと気づく筈はない。軽い挨拶だけで何も訊き出せなかったが、宏明の事情をもっと知りたい。そのために他人のフリをして近づいて、親しくならなければいけない。
 おそらく夫婦という枠を外れたら、客観的に見られる。《この男を人生の伴侶に選んだことが間違いだったか、どうか?》二十歳の啓子の目で見てやろう!

 毎日、ショッピングモール街や宏明のアパート周辺を探偵みたいに見張っているが……あれから宏明と遭遇できなかった。ここ数日、外出もしていないようだ。
 まさか? 病気の女性と心中したのではないかと心配になってきた。
 啓子は今〔若返りカプセル〕という怪しい薬を飲んで、若くなっているが……自分だって、いつどうなるか分からない身なのである。これから、どう行動すべきか、啓子自身できるだけ早く判断しなければいけない――。
 そして今日もショッピングモールの入口やアパートのドアばかりを睨んでいる。
 わたしってば、探偵というより……あきらかに《ストーカー女だわ!》自分の今の行動を苦笑する啓子だった。

 外出しない宏明が心配だったので、啓子は午前中から様子を見にいこうとショッピングモール街を抜けて、宏明のアパートへ向かった。
 道すがら、いろいろ作戦を考えながら……、《奈緒美さんの部屋に遊びにきたけど、お留守なので待たせてください》とか言って、強引に部屋に上がらせて貰おうかしら。それともトイレ貸してくださいって頼んでみるのも有りか、こんな時、五十五歳のおばさんなら幾らでもずうずうしくなれる生き物から大丈夫だ。
 よしっ! 上がり込んだらこっちのもの。そんな悪徳セールスマンみたいなことを考えながら歩いていたら――小さな児童公園のベンチに見覚えのある男の背中が……。

「あなた?」
 まぎれもなく夫の宏明の背中だった。
 先日着ていた紺のブルゾンと同じ格好だったから、それにしても午前中のこんな時間に、公園のベンチで何をしているんだろう? 
 小さな公園には滑り台、ブランコ、砂場があって、幼児を連れたママたちのグループが五、六人で子どもを遊ばせていた。
 何をするでもなく……宏明はその光景をぼんやりと眺めているようだった。そっと近付いて、啓子は後ろから声をかけた。
「こんにちは」
 ギクッとして肩をすぼめ、驚いたように宏明が振り返った。
「あぁー、君は!」
「こんな所で何してるんですか?」
「うん、たまには日なたぼっこだよ」
 見れば手にスーパーの袋を提げていた。たぶん買い物の帰りに、ここで休憩していたのだろうか? 看病疲れか、少しやつれて痩せたようにも見える。《早く家に帰って来てくれたらいいのに……》と心の中で啓子は呟いた。
「子ども好きなんですか? さっきから砂場の子どもたち見てるけど……」
「……娘がふたりいるんだけど。小さい頃を思い出してね」
 そういえば、娘たちが小さい頃よく家族で公園に遊びに行ったものだった。季節が良い頃にはお弁当を作ってピクニックをしたり、楽しそうに遊具で遊ぶ娘たちの姿を、夫婦で笑顔で眺めていたなぁー。二十歳の啓子は二十年前を思い出していた。

「今は娘さんたちと暮らしてないんですか?」
 思わず痛いところを突いてしまった。宏明は、しばらく黙りこんでいたが、
「……事情があって。俺が家を出ているからね」
「そうなんですか? 家族の方は寂しがってるかもしれませんよ」
「…………」
 つい本音で詰問してしまったが、その問いに宏明は何も答えなかった。
 あなたの事情で打ち捨てられた、わたしたち家族のことをどう考えているのだろう? 今ここで宏明に答えて欲しい啓子だった。
「さてと、そろそろ帰るか。買い物してアパートに帰ったら、病人が寝てたので起こさないように……ここで時間を潰して居たんだよ」
「――そうなんですか?」
「うん」
「優しいんですね」
「そうかなぁー」
「今度、お見舞いに行ってもいいですか?」
「えっ? 別に構わないけど……」
「じゃあー、きっとお伺いしますから……」
 宏明はベンチから立ち上がって、啓子の顔をマジマジと見た。――そして不思議そうな顔で、
「君、名前は?」
「あっ! あの……えっと……ケイです」
 ふいに名前を訊かれて啓子は焦った。偽名までは考えてなかったのだ――。まさか夫に自分の名前を訊かれるなんて想定外だった。
「ほぉ、ケイちゃんって言うのかい?」
「はい、ケイです」
「君は俺の妻の若い頃にそっくりなんだ」
「そ、そうですか。あははっ」
 誤魔化し笑いしながら《だって、本人だもんね》と啓子は心の中で舌をだす。
「うん。若い頃の妻は君みたいに華奢で抱きしめるとポキッと折れそうなくらいだったんだ」
「そうですかぁー」
 それって……今は華奢じゃなくて、メタボな中年女ってことか? 一瞬、ムッとする啓子。
「学生時代に知り合ってね。彼女と一緒になれないくらいなら死んでもいいとさえ思っていたのに、それが……月日が人も心も変えてしまったんだ」
 宏明のその言葉を聴いて《違う! 違う! わたしの心は変わっていない。変わってしまったのはあなたの方よ!》そう大声で叫びたかった。
「それじゃー、またね」
「はい……」
 変なことを言い出した自分を恥じるかのように、ふいに宏明は行ってしまった。
 その後ろ姿が見えなくなるまで啓子は見送っていた。もう自分ものではなくなってしまった夫の心を取り戻す術が見つからない……今の宏明にとって、わたしたち家族は過去のものになりつつあるのだ。
 それでも、あんな風に家族のことも思い出すことだってあるんだ。完全に忘れられていたんじゃなく、宏明の心に少しでも引っかかっているだけでも、啓子は嬉しかった。《わたしは、まだ彼を愛してるんだ》その気持ちだけが自分でもよく分かった。
 真実を明かすこともできず、すれ違う、ふたりの心であった。







創作小説・詩

by utakatarennka | 2017-06-17 20:27 | 現代小説

RESET ⑮

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   第十五章 それは宏明の固い決意

「幸恵……これ以上は自宅で看護するのは無理だ。病院に入院して治療を受けよう」
「ヒロさん、どうせ……助からないのに入院しても仕方ない……」
 これまでも何度も説得するが、頑として幸恵は受け入れない。
「だけど……そんなに苦しむ、おまえを見るのが辛いんだ」
「あたしはもういいんです。それより……ヒロさんは早く家に帰ってください」
「おまえを置いて、帰れるかっ!」
「幸恵はもうすぐ死にます。こんな女に関わって、ヒロさんまで大事なものを失くしてします」
「いいんだ! これが俺の罪ほろぼしなんだ」
「ヒロさん……ごめんなさい……」
 病人は仰向いたまま涙を流すので、頬を伝って、耳の方までしずくが零れた。
「泣くな……」
 ハンカチで幸恵の涙を拭ってやると、宏明は優しく抱きしめた。
「今まで、ずっと辛い人生をいきてきた幸恵を、俺が最後に幸せにしてやる!」
「ヒロさん……」
「俺の子どもを産んで育ててくれた、おまえに何ひとつしてやれなかった」
「幸恵はヒロさんの子どもを産めただけで幸せだった。もうすぐ宏司のところへ逝けます。あの子……ひとりできっと寂しがってるから、お母さん早く会いにいきたい」
「幸恵……すまない」

 二十年前、急に自分の元から消えた幸恵を、あの時、なぜ探さなかったんだろう。どうせ不倫だ……後腐れなく別れられて良かったという安堵感が宏明の心の奥にはあった。……まさか妊娠しているとは考えてもみなかった。男という生き物は、女に妊娠という事実を告げられるまで、そんなことは頭の隅っこにもない。
 急に消えたのは新しい男ができて、自分は幸恵に振られたのだとばかり思っていた。けれども未練はあった、だが悔しいので絶対に追いかけないと誓ったのだ。クダラナイ男のプライドだったと今更にして思う。

 そして幸恵の方は妊娠したことが分かったが、お腹の子どもは不倫の子なので、中絶させられるのを怖れて……何も告げずに別れていった。
 手紙も伝言も残さなかったのは……ヒロさんが自分のことを憎んでくれて――早く忘れて欲しかったので、あんな邪険な別れ方をしたのだ。
 ひとりで宏明の子ども宏司を産んで、温泉旅館で住み込みの仲居をしながら育てていたが、五歳の時に風邪をこじらせ肺炎になり、あっけなく宏司は亡くなった。
 丁度、年の暮れで旅館は忘年会の泊り客たちが立て込んでいて、とても忙しい時期だった。――熱を出して寝込んでいる宏司を、きちんと看病をしてやらなかった自分のせいで死んだのだと、幸恵は深く深く後悔していた。
 だから……乳癌の後、また癌が再発したが、今度は治療も受けずに死ぬつもりだった。
 最後は宏司の父親ヒロさんの住む街で、ひっそり死のうと雪国からひとり出てきたのである。
 あの日、ふたりは偶然にも、この街で出会ってしまった。
 ――徒(いたずら)な運命。

「幸恵、今度は離さないから……」
「あたしはいいんです。ヒロさんには家族が……」
「俺のせいでおまえは苦労したんだ。今度は俺がおまえのために全てを捨てる!」
「……そんな」
 宏明は家に帰るつもりはなかった。会社も退職したし、啓子には離婚届を送った、全て捨てる覚悟なのだ。
 たとえ、幸恵が死んでも自分は元の生活には戻らない。
 ……幸恵が死んだら、沖縄の離島にでも渡って、世捨て人みたいな暮らしをする。――この先は幸恵の弔いをしながら、ひとりで孤独に生きていくつもりだった。
 最後に幸恵を入籍して、俺の妻にしてから死なせてやりたかったが……啓子が離婚届けに判子を押してくれそうもない。まぁー当然か? ごちゃごちゃ揉めてる時間が……こっちには残されていない。
 病院の検診で「もって……あと二週間……」と、医師に余命宣告された。
 幸恵に残された時間を、少しでも一緒に居てやりたいと宏明はそう思っている。






創作小説・詩

by utakatarennka | 2017-06-16 20:19 | 現代小説

RESET ⑭

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   第十四章 探偵になった啓子

 翌日の昼過ぎ。愛美の携帯に奈緒美から電話があった。
 啓子の携帯の番号を知らないので、愛美の携帯にかけたようだ。啓子のようなおばさんになると携帯番号を相手から聞いたからといって、すぐアドレス登録しないものである。
 こういうチマチマした機械類の扱いが面倒で仕方がない。《いくら若返っても、機械音痴だけは治らない……》結局、愛美に奈緒美のアドレスを登録して貰った。
「お母さん、若者が〔楽らくフォン〕はオカシイよぉー」
「ほんとねぇー、老眼もないし、若者向きの携帯に買い替えるわ」
 やはり、携帯にも世代の差ってもんがあるんだ。

 電話の奈緒美の声は弾んでいた。
 昨夜、あれから高野のお店にフェラーリを置かせて貰って、石浜とふたりでお酒を飲みに行った。ふたりでしたたか飲んで酔っ払って、ラブホに泊ってやっちゃった……。だけど、朝起きたら石浜さんが「奈緒美のこと大事にする!」って誓ってくれて、料理の腕を磨くために、もう一度イタリアへ修業に行くから、今度は奈緒美も一緒にイタリアへ付いて来てくれと言われた。そんなことを石浜さんに言われて夢みたい!
 ――と、奈緒美は興奮気味で幸せそうだった。
 昨夜、酔ったふりで石浜にはずいぶん酷いことを言ったと啓子も反省していたが……。
 その言葉を真摯に受け止めて、もう一度イタリアに修業に行くと言った石浜は偉いと思う。彼なら、きっと超一流のシェフになれるだろうと啓子は確信した。
 まあー、切欠はどうあれ。――これで石浜の目が奈緒美に向いて良かったと思う。若い子は良いなぁー、この結果に啓子は満足だった。
 それよりも自分は今、宏明のことをもっと調べなくてはならない。バイトも辞めたし、明日から行動しようと決心した。若返った、今の啓子は体力なら自信があるのだ。

 翌日から、ショッピングモール街の入口近く、オープンカフェでの啓子の張り込みが始まった。
 奈緒美の情報に寄ると、一日置きくらいに宏明は、ここのスーパーで買い物をするようだ。車椅子を押して女性と来ることも多いが、最近ではひとりで買い物に来ていることが多くなった。幸恵さんが衰弱して体力がなくて……もう散歩も辛いらしい。
 オープンカフェの椅子に座って、宏明が来ないかと、お昼からずっと『入口』周辺を啓子は見張っている。
 もし現れたら、なんとか切欠を作って話しかけたい。たぶん、今の自分を見ても妻の『啓子』だと、絶対に宏明は気付かないだろう。

 啓子には、宏明に合って聞きたいことがあるのだ。どうしても納得できないこと、それは《三十年も連れ添った妻と家族をなぜ捨てなければいけないのか?》である。わたしたちを捨ててまで、あの女性に尽くす理由が知りたかった。
 それは嫉妬とか憤怒の感情ではなく――。
 夫をあそこまで駆り立てた女性との繋がりや……。もしかしたら、病人の介護をしている夫の手助けができるかも知れないという考えもあった。――あの痩せた女性に啓子は少しは同情していた。
 今までは、夫に依存するばかりで自分から何ひとつ行動しなかった啓子だが、今回は自分の意志で……どんな結果になろうとも行動することを決めた。
 若返ることで、啓子はアクティブな人間へと生まれ変わったみたいなのだ。

 ショッピングモール街の入口近くはザワザワして人通りも多い。見張っていても見つけられるだろうか? しかも入口はここだけではない。
 かれこれ五時間以上もオープンカフェに居るので、コーヒーや飲みもの五杯目である。
 今日は買い物に来なかったのかな? それとも午前中に来ちゃった? もしかしたら……気がつかない内に通り過ぎたのかもしれないか?
 そんなことを考えて、今日はもう引きあげて、スーパーで買い物でもして帰ろう《明日も、張り込み頑張るから……》と自分に言い聞かせて、カフェの椅子から立ち上がり、ショッピングモール内に入って行くと……。
 丁度、宏明が入って来た。紺のブルゾンとジーンズのラフな格好で宏明が歩いてきた、今日はひとりのようだ。

 瞬間、啓子は物陰に隠れてやり過し……宏明の後からショッピングモール内のスーパーへと入っていった。
 宏明はスーパーの入口でショッピングカートの上にカゴを置き、ゆっくりと店内を回り始めた。見失わないように啓子もカゴを持って宏明の後に続く。
 果物のコーナーでりんごやオレンジを手に取って、どれにしようかと宏明は思案しているようだった。
 専業主婦だった啓子は家事を一手に引き受けて、夫に家事を手伝って貰ったことがあまりない。たまに日曜日、一緒にショッピングにいくが啓子がスーパーで食材を買っている間、宏明は書籍コーナーで雑誌を立ち読みしながら、啓子の買い物が終わるのを待っていることが多かった。
 三十年間連れ添った夫が、別の生活のために買い物をしている。ひとつ、ひとつ食材を手に取って、愛人に食べさせるものを吟味する、その情景が……もう赤の他人のようで、啓子にはとても悲しかった。

「おじさん……」
 思い切って啓子は宏明に声を掛けてみた。
 レジでの精算が終わり、買い物した品物を台の上でレジ袋に詰めていたところを見計らって、後ろから突然呼びかけた。
 ん? と、いった感じでゆっくりと振り向いて宏明は少し驚いたようだ。
「あぁー、君は奈緒美ちゃんの……」
「わたし、お買い物してたら、知ってる人だから、声かけました……」
 久しぶりに真近に見る宏明にドギマギして啓子は変な日本語になっている。
「あははっ。それはありがとう」
「おじさん、お買い物して……ご飯作ったりしているの?」
「自分の分と病人の分とね……大した物作れないけど」
 三十年間の結婚生活で、宏明に料理を作って貰ったことはほとんどない。その夫が慣れない料理を作っているなんて……ちょっと複雑な気分だった。
「奈緒美ちゃん、今日はスーパーのバイト休んでいたよ」
「ええ。知っています」
 奈緒美は石浜とイタリアに行く準備があるのでバイトは辞めると言っていた。
「わたし、今バイト探してるんです」
「そうかい、おじさんは失業中だよ。あははっ」
 なぜか、宏明が明るく笑った。きっと覚悟を決めての退職なので後悔はないのだろう。
「じゃあ、頑張ってね」
 そういうと宏明はレジ袋を提げて行ってしまった。家で病人が待っているので忙しいのだろうか?
 遠ざかる宏明の後ろ姿を見つめながら……小さな声で啓子は呟いた「あなた……」なぜか目頭が熱くなった。

 少しでも宏明と話ができて良かった。
 ……あの後、涙が止まらなくなったので、慌ててトイレに駆け込んで、しばらく啓子は泣いていた。宏明という人生の『大黒柱』を失った、今の自分は心細く惨めだった。
 長い間、宏明と暮らしていたが……夫が自分を見ていないと、いつも不満ばかり言っていたが、実は啓子だって宏明のことをちゃんと見ていなかったことに気がついた。
《わたしは夫のことを何も知らなかった》家族という曖昧な関係で括られて、宏明のことを理解しようという努力を長い間サボっていたようだ。
 今まで啓子は『専業主婦』という家庭内での絶対的地位に甘んじていたのだろう。そのツケが回ってきたのかもしれない。







創作小説・詩

by utakatarennka | 2017-06-16 17:45 | 現代小説

RESET ⑬

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   第十三章 啓子、おばさんパワー全開

 翌日から『ベネチアーノ』に奈緒美が出勤してきた。
 啓子と奈緒美のふたりがロッカールームで遭遇したら一触即発、何が起きるかと職場の仲間たちは冷や冷やしながら、内心ワクワクしながら動向を見守っていた――が。以外や、このふたり親しげにロッカールームで談笑しているではないか。
 その光景に驚いたのは、職場の仲間たちだった。
 啓子は奈緒美に「石浜さんのこと応援するからね!」と言った手前、ふたりをくっつけたいと密かに作戦を練っていた。
 昨夜、石浜に「明日、『Una famiglia』で食事をご馳走してください」とメールを送った。折り返し、石浜から「オーケイ」と送信された。ここのところ何度、誘ってもデートを断られていたので、よほど嬉しかったのだろうか? メールの絵文字がハートだらけで……ちょっと……キモかった。

『ベネチアーノ』のバイトが終わって出てきたら、石浜の赤いフェラーリがお店の前に停めてあって、啓子を待っていた。
《うわっ、なんて早い!》ビックリした。「啓子ちゃーん、こっち、こっち!」と手招きして呼んでいる。《そんなド派手な車。呼ばれなくても、目立ってるって!》苦笑する啓子だった。
「啓子ちゃん、『Una famiglia』の高野さんに予約入れといたよ!」
 満面の笑みで石浜が言った。
「あのねぇー、急なんだけど予約三人に変更してくれない?」
「えっ? えぇー!?」
「お友だちが是非『Una famiglia』のお料理を食べてみたいって言うの」
「……そう、別に構わないけど……」
 あからさまに不満そうな顔で石浜が答えた。ふたりきりのデートだと思っていたのに、あてが外れてガッカリした表情だった。
「お待たせー」
 そこへ奈緒美がやってきた。

 フェラーリの車内では、石浜の隣の助手席に奈緒美を座らせ、啓子はわざと後部座席にひとりで座った。
 石浜のフェラーリに初めて乗った、奈緒美が大はしゃぎだった。
「石浜さん、この車、超かっこいいねぇー」
「あははっ」
 奈緒美に車を褒められて、まんざらでもない様子だった。
 そこで、すかさず啓子が、
「わたしって、車とか全然興味ないしぃー、軽自動車の方が燃費も良いし、お得だと思うの」
 わざと野暮なことを言ってみる。
「フェラーリと軽自動車を一緒にされたら……」
「やっぱし、エコライフを考えないとねぇー」
「……まぁね」
 大好きな啓子に全否定されて、さすがの石浜も返答に詰まっている。
「わたし、車の免許持ってないから、いつもママチャリに乗っているんだぁー」
「ママチャリって……」
 プッと奈緒美が吹いた。
 わざとKYなことを言っている啓子だが……しかし、免許を持っていないのは事実である。夫の宏明にどん臭いで車の運転はするなと若い頃に言われて、それ以降、運転免許を取ろうとしなかったのだ。
 啓子のKYな発言でフェラーリの車内は可笑しな雰囲気が漂っていた。

『Una famiglia』に到着して、三人で来店したらシェフの高野がからかうように。
「石浜くん、今日は両手に花じゃないか?」
「あはは……」
 返答に困って、曖昧に笑って誤魔化す石浜だった。
 男ひとりに女ふたりと……なんとも危ういシチュエーションである。先日と同じ『シェフのおまかせコース』を注文した。
「え……っと、ワインはグラスの赤でいいね?」
 メニューを見ながら、石浜がふたりに訊いた。
「うん。あたしグラスの白がいいわ!」
  と、奈緒美が答えた。そして啓子は……。
「わたし、ボトルの赤ワインにしてね!」
「ボトルって? 啓子ちゃん大丈夫かい?」
 びっくりしてメニューから顔を上げた石浜が聞いた。勝手に啓子を下戸だと思い込んでいたので驚いたようだ。
「わたし、毎晩、晩酌してるからヘーキですぅー」
「晩酌って……なんかオヤジみたい」
 奈緒美がクスクス笑った。石浜は我が耳を疑うといった顔で啓子を見ていた。
「グラスワインなんかチマチマ飲んでられないわ」
「啓子ちゃんってお酒好きなんだ」
 奈緒美は啓子もお酒好きと聞いて『おおーっ、我が同志よ!』と言った感じで、嬉しそうなのだ。
「今夜は飲むぞぉー!」
 先日の恨み《美味しい料理を前に、たった一杯しかワインが飲めなかった――》憂さを晴らすため……今日は思いっきり飲む気満々の啓子だった。

 料理と一緒に運ばれたワインの瓶を有無をいわせず自分の料理の傍らに置いて、啓子はひとり占め状態にした。石浜は運転があるので飲めないし、奈緒美はワインが苦手でビールか焼酎の方が好きなのだ。
 依って、このワインの瓶は啓子ひとりものとなる!
 石浜が予約を入れて置いてくれたので、高野シェフは前より手のこんだ料理でもてなしてくれた。《美味しいイタリアンと地中海ワイン最高!》思わず、舌鼓を打ちワインが進む進む――。
 終いには手酌でどんどんグラスに注ぐ、啓子のテンポの速い飲みっぷりに……。
「啓子ちゃん、そんな勢いで飲んで大丈夫かい?」
「ヘーキ、ヘーキ、あははっ」
 五十五歳の啓子と違って、二十歳の啓子はアルコールに対する免疫がまだ弱いのか?
 ボトル半分くらいで急激に酔いが回ってきた。
「すごい飲みっぷりよね! あたしよりお酒強いかも?」
「へへん。これっくらい大したことないよぉー、ボトルお代わりー!」
「おいおい……」
 空瓶を掲げて注文する啓子に、高野シャフと奥さんの理沙子がギョッとした顔で驚いていた。こんな若い娘があっという間にボトル一本空けたのだからビックリである。
「啓子ちゃん、もうそれくらいにしておきなよ……」
「こんくらいじゃあー、ワインが足りないよぉー」
「飲み過ぎだってぇー」
 奈緒美まで諌めた。
「もっと飲みたいよぉー、このケチンボ!」
 酔って管巻く啓子に、さすがの石浜もキレた。
「僕の友人のお店でそんな醜態を曝すのは、止めてくれ!」

「あんだってぇー?」
 泥酔して目が座っている啓子が凄味のある声で聴き返した。
「……だから、もう飲むのは止めてくれよ」
「なんだとぉー、この若造がぁー」
 すっかりヨッパのオヤジ状態である。
「若造って……?」
「石浜くん、あんたねぇーお店でみんなにチヤホヤされてるからって、いい気になってるんじゃないの?」
「どういうことさ?」
「料理人のくせに、赤いフェラーリとか乗り回してチャラチャラ格好つけ過ぎなんだよ」
「……だから、なにさ?」
「あんたの料理は格好ばかりで魂が籠もってないんだ」
 ハッと弾かれたような顔になった石浜。
「そんなことじゃあー、いつまで経っても、ここの高野シェフの腕を越せない!」
「…………」
 その言葉に憮然と石浜は黙り込んだ。
 奈緒美はおろおろしながらふたりを見ていた。遠巻きに高野夫妻もふたりの遣り取りを聴いていたようだ。
 ……非常に気まずい雰囲気が流れた。
 いきなり「わたし帰る!」そう言って、プイッと席を立って啓子は歩き出した。後ろで奈緒美の引き留める声がしたが……無視して出口へ向かってさっさっと歩く。
 心配そうな理沙子さんに、「迷惑かけて、ごめんなさい……」小声で謝って、レジのテーブルに万札を一枚置いて、逃げるようにお店から飛び出した。

『Una famiglia』から、少し歩いた所で、啓子は運よくタクシーが拾えたのでそれに乗って帰ることに。
 高野のお店でわざと醜態を曝して、石浜に愛想を尽かせるという。――自分の計画はたぶん上手くいったと思う。
 後は奈緒美さんの頑張り次第だ。傷心の石浜を上手く慰めてあげられれば良いのだが……。

 家に帰ると、バイトを辞めて暇を持て余してる愛美が料理を作って待っててくれた。なんだか……母子家庭みたいになっちゃってる。
「あれ? お母さん飲んできたの?」
「バレたかぁー?」
「ホントにもうぉー、啓子ちゃんがこんな不良娘だとは知らなかったよ」
「あはははっ」
 プーと頬っぺたを膨らませて、プンプンとおどけて怒った振りをする愛美。わざと冗談を言って啓子を慰めてくれている。この歳(リアル年齢五十五歳)で父に捨てられた母を可哀相だと思っているのだろう。
 先日、啓子は宏明に逢ったことを愛美に話した。その時の細かい状況も、もちろん聞かせた。その話を聴いて、冷静な愛美は、「どうも深い事情がありそうだから……もう少し様子を見てから、行動した方が良さそうね。そんな状況じゃあ、お父さんもすぐには戻れそうもないもの」確かに愛美の言う通り、少し宏明のことを調べてから行動した方が良さそうだ。







創作小説・詩

by utakatarennka | 2017-06-16 17:24 | 現代小説

RESET ⑫

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   第十二章 雪国の女

 二十年前、宏明は当時の上司と反りが合わず……。北陸支社への出向の辞令を貰った。
 まだ愛美が二歳になったばかりで、小さい子どもをそんな寒い地方へ連れていくのは不安だと……啓子は子どもたちとこの街に残ると言い張った。
 いずれ出向が長引けば付いてゆくが、愛美が三歳になるまでは行けないと言われて、宏明は雪深い北陸の町に単身赴任した。
 宏明は「これは左遷ではなく……出向(長期出張)なんだ……」と自分を慰めてみたが……この惨めさと孤独感はどうにも拭い切れなかった。

 そんな時、北陸支社の同僚に誘われて行った、スナック『みゆき』で宏明は幸恵と知り合った。
 当時、幸恵(さちえ)は三十代半ば、色白の『北陸美人』といった感じで素朴な美しさだった。離婚して、スナック『みゆき』の雇われママをやっていた。小さなお店だが女の子を三人ほど雇って結構繁盛していた。初めて行ったお店だが、ママの幸恵が愛想が良くて優しいので、宏明はすっかり気に入った。
 何度か、お店の通う内にふたりは親しくなり、スナックの二階の部屋で宏明は幸恵を抱いた。雪のような白い肌の女だった――。

 ふたりは親密な関係になり、幸恵の部屋に通う内に彼女の身の上話も聴いた。
 幸恵は北陸の寒村で生まれた。すでに両親はなく天涯孤独な境遇だった。中学を卒業して、すぐ温泉旅館で住み込みの仲居をしながら、ひとりで生きてきた。二十歳の時にその旅館の板前と結婚したが……酒癖の悪い男で、夫の暴力に耐えかねて逃げ出したという。
 家庭的な女でマメに宏明の世話も焼いてくれていた。子どもはいなかったが、幸恵は子どもが好きだった。
 寒い雪国で布団の中、ふたり抱き合って眠る夜――。
「ヒロさん、温かいがや。男の人にこんな優しくして貰ったのは初めて……」
 北陸訛りでいう。
「幸恵……」
 強く抱きしめると、幸恵は宏明の胸の中で泣いた。
「幸せがやー、ヒロさんと一緒に居るだけで幸恵は幸せがね……」
 宏明も幸恵と居るときだけは、会社も仕事も家庭のことも全て忘れていられた。
 そんな生活が半年ほど続いて、雪深いこの街で、宏明はこの女と生涯暮らしても良いとさえ思い始めていたが……。

 ――そんな、ある日、忽然と幸恵が目の前から消えた。
 スナックの二階の幸恵の部屋にいくとモヌケの空だった。荷物がなくなって、自分宛ての手紙すら残されていなかった。茫然と空っぽの部屋で宏明は立ちつくした。
 急にお店を辞めて出ていったと、スナックのオーナーに聞かされたが……なぜ急に自分の前から、幸恵が消えたのか理由が分からなかった。
 半同棲していた女から、こんな仕打ちを受けるなんて……男としてプライドが傷ついたが、《どうせ水商売の女だから、新しい男でも出来たのだろう》そう思うことで、宏明は幸恵への未練を断ち切って忘れようとしていた。
 しょせん、俺たちは不倫の関係ではないか……。
 そうこうしている内に、反りが合わなかった上司が失脚して、地方へ左遷させられていた宏明が本社に呼び戻されて、また家族と一緒に暮らせるようになった。
 しかし……時々、幸恵のことを思い出しては……なぜ、あんなにきれいさっぱりと自分の前から姿を消したのか? 悔しいような、切ないような、釈然としない、その想いに懊悩する日々だった。

 ベッドで眠る幸恵の寝顔を見ながら……宏明は二十年前の出来事を思い出していた。
 そして、あの日、ショッピングモール街で奇跡の再会したふたりだった。
 あの時、宏明は過去の経緯(いきさつ)を忘れて、幸恵に対して懐かしい気持ちでいっぱいだった。まさか、こんな近くで逢えるなんて夢にも思わなかった。
 さっそく、幸恵に連絡先を訊いたが……なかなか幸恵は教えたがらなかった。それでも粘り強く訊ねると……やっと住所を教えてくれた。そこはショッピングモールから目と鼻の先の住所だった。
 どうやら幸恵は半年ほど前に雪国から、この街に引っ越しして来て、ここのスーパーで掃除の仕事をしているようだった。なんだかやつれて顔色の悪い幸恵のことが、やけに宏明は気になった。
 翌日さっそく、様子を見るため、幸恵に教えて貰った住所を訪ねてみることにした。そこは路地の奥の小さなアパートだった。ひとり暮らしみたいなので思いきってドアをノックしてみたら、中から「はーい」と返事が聴こえた。

 部屋から出てきた幸恵は風呂上りらしく、少し濡れた髪のままでドアを開けてくれた。
 宏明を見た瞬間、「あっ」と小さな声を漏らした。まさか、こんな早く訪ねてくるとは予想していなかったのだろう。
 玄関に立ってる宏明をマジマジと見つめて、少し涙ぐんでいた。
「幸恵……おまえに逢いたかった」
「ヒロさん、ごめんなさい」
「俺は……おまえのことが忘れられなかった」
「…………」
 幸恵は黙って俯いた。
「どうして、何も告げずに消えたんだ?」
 あの時、宏明は幸恵のことを探さなかった。だから、ずっと気がかりで心の中で幸恵のことを探していたのだ。
「あたし……あた……し……」
 言葉を詰まらせ、幸恵は嗚咽を漏らした。
「話を聞かせてくれ」
 宏明は玄関先ではなく、幸恵の部屋に上がった。

 1Kの小さなアパートにはベッドとわずかな家財道具。引っ越して間なしなのか、まだ開封されていない段ボールが部屋の隅に積んであった。ふと見ると、ベッドの脇のサイドテーブルの上に小さな仏壇が置かれてあった。  
 位牌の前には仏花とポッキーチョコやキャラメルなど子どもの好きなお菓子が供えてあった。
「これは……?」
「子どもの位牌です」
「幸恵さんの子か? 名前は?」
「宏司(こうじ)……五歳で亡くなりました」

 別れた時、幸恵は三十代半ばだった。あの頃、セックスの最中に幸恵は「ヒロさんの子どもが欲しい」とよく口走っていた。もちろん、不倫関係なので避妊には気をつけていたが……何度か、酔った勢いでなんの処置もなく幸恵を抱いたことがあった――。
「こうじ……宏明の宏という字を書くのか?」
 幸恵はこっくりと頷いた。もしかしたらその子どもは……?  
「俺の子どもなんだな?」
 再び、幸恵はこっくりと頷いた。やはり! そんな予感がした――。

「どうして? 俺に内緒で産んだりしたんだ?」
「あたしが妊娠していることがバレたら……ヒロさんや奥さんにも迷惑がかかるから……。誰にも分からないように、こっそりと子どもを産みたかった。ヒロさんの赤ちゃんがどうしても欲しかった――あたし。ひとりで育てるつもりだった」
 そういって、幸恵はぽろぽろと涙を流した。
「あの時……言ってくれたら、俺は幸恵ひとりに辛い思いはさせなかった」
 幸恵の肩を抱いて、宏明は言った。
「それなのに……なのに……宏司を病気で死なせてしまった。ヒロさん……どうか許してください。あなたの大事な子どもなのに、たった五歳で死なせて……」
 宏明の胸に頬を押しあてて、幸恵は止めどなく涙を流した。
「幸恵……おまえのせいじゃない。それは宏司の運命なんだから……」
 彼女の深い悲しみを知って、何も出来ない宏明は強く抱きしめた。胸の中で幸恵は赤子のように泣き続ける。今までの悲しみが一気に溢れ出たのだろうか。
 二十年以上も前に別れた幸恵は……俺の子ども身ごもって黙って消えていった。子どもを生んだ事実も知らず、その子どもが五歳で死んだことも俺は知らずに、のほほんと人生を送っているところだった――。
 宏明は自分自身の無責任さを痛烈に後悔していた。







創作小説・詩

by utakatarennka | 2017-06-15 17:06 | 現代小説