― Metamorphose ―

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   第十五章 交わらない線

 崎山が一週間ぶりに職場に復帰してきた。
 亜脱臼した肩がまだ上がらないので、当分は送迎車の運転は無理だということで、代わりにデイサービス『ゆーとぴあ』のアクティビティの一環として、利用者たちのカラオケ大会やゲームなどレクリエーションがあるが、その進行係を崎山が務めることになった。
 普段から利用者たちに人気のある崎山は、楽しいトークでレクリエーションの場を盛り上げて、老人たちを喜ばせるのが実に上手い、認知症のおばあさんまで楽しそうに笑っている。――持って生まれたリーダーシップを発揮している。
 崎山は不思議なオーラを放つ男だと、涼子は感心しながら仕事振りを見ていた。

 綾子が崎山家への引っ越を完了させて、崎山のケガもだいぶ回復してきたので、約束通り三人で、綾子の娘を連れ出しにいくことになった。
 辻本家まで、涼子の軽自動車で行くことになったが、大きな身体の崎山は後部座席でちょっと窮屈そうだった。綾子が助手席に座って、自宅までの道案内してくれるという。
 涼子は運転している内に、ここは以前に住んでいた町の近くだということに気づいた。元婚約者とこの町にあるマンションで暮らしていたのだ。ここは出来るだけ近づきたくない場所だった、この町の風景を見ていると、彼の面影が脳裏をよぎって、罪悪感に苛まれ逃げ出したくなってしまう。涼子は運転に集中することで、あまり周りを見ないようにしていた。
 とにかく綾子の娘を救出するため、事情が事情なだけに今は仕方がない。

 古い二階建ての家が見えてきた、ここが自宅だと綾子が指差すので、その家の前に車を停めて三人は降りた。
 綾子は緊張した面持ちで家の前に立って眺めていた、一年振りの帰宅にたぶん複雑な心境なのだろう。玄関前のプランターの草花は枯れ果て、玄関を塞ぐ古タイヤと壊れた扇風機、ゴミ箱や新聞紙と段ボールが乱雑に放置され、雨ざらしで錆びついた自転車……何だか、重たい空気の家だと涼子は感じていた。
 ついに意を決したように、綾子は持っていた自宅の鍵で、玄関のドアを開けて家の中へと入っていった。そして、二階に娘の部屋があるからと階段を上がろうとしたら、物音に気づいて、奥の部屋から初老の男が出てきた。
「綾子!」
 この男がどうやら綾子の夫ようだ。
「あんた! 今日は優衣を引き取りにきたよ」
「なんだとぉー! このアマ勝手に家から出ていきやがってぇー」
 綾子に殴りかかろうと男が腕を振り上げたが、その腕を崎山にむんずと掴まれた。いきなり180cm以上もある大男に、その腕を押さえられたのだからかなり驚いている。
「だ、誰だよ。おまえらは……」
「綾子さん、早く二階の娘さんを連れてくるんだ!」
「は、はい!」
 綾子は階段を駆け登り娘の部屋へ向かったが、しばらくすると降りてきて「娘がいない……」と、がっかりした顔でいった。
「あんた! あの子はどこへいったんだよ」
 崎山に押さえられている夫に向かって訊いた。
「あのガキはこの家から出ていった……」
「なんだって? それは本当かい? まさか、あの子に何かしたんじゃないだろうね」
 綾子は厳しい顔で、夫に問い質すと……。
「五日前の夕方、俺がちょっと怒ったら……そのまんま家から飛び出だしていったんだ」
「あんた! さては娘を殴ったんだろう? あの引っ込み思案の子が自分から家を飛び出すなんて有りえない、よっぽどのことに違いないんだよ!」
「俺は何にもやってねぇーよ……」
「嘘つくんじゃないよ! この野郎がぁー」
 激昂した綾子が、夫に殴りかかろうとするの慌てて涼子が止めた。
「綾子さん、落ち着いて……娘さんが失踪した手掛かりは何かないの?」
「おいっ! 何か知っていることを聞かせて貰おうか?」
 崎山が男の腕をさらに捻りあげて、脅すような凄味のある声で質問した。
 綾子の夫は崎山にビビって抵抗する様子もない。女こどもに暴力を振るうような男ほど、相手が強いと何にも出来ない小心者なのだと涼子は思った。
 それにしても……やっぱり崎山は頼りになる男だ。
「いててぇー! 家出した……あくる日に、男の声で、娘さんは自分が保護してるから、今後いっさい近づくなと……電話があったんだ」
「それは誰よ?」
「知らねぇーよ! 初めて聴いた声だった。若い男の声で……」
「その男の所に、娘が居るんだね?」
「俺は何も知らん!」
 これ以上、訊いてもこの男は何も答えられそうもないので、仕方なく、三人は辻本家から撤退した。

 今回の救出作戦は空振りに終わった――。
 綾子は娘が家出して行方不明になっていることに、ひどくショックを受けて……帰りの車の中でずっと泣いていた。なぜか腕に白いクマのぬいぐるみを持っていた。
「そのぬいぐるみ、娘さんの部屋から?」
「うん。昔、これと同じぬいぐるみを兄の健人がゲームセンターで取ってやってさ。あの子はすごく大事にしていたのに……健人のお棺の中に入れてしまったんだ。――それなのに、今日、あの子の部屋に入ったら、これがベッドに置いてあったから……このぬいぐるみを持っていたら、きっと娘に会える日がくるような気がして、これを持ってきたんだよ」
「綾子さん、きっと娘さんと会えるからね! 一緒に探そうよ」
「そうだよ。娘さんは、あんな暴力親父と居るよりも、自分の意思で家出したというのなら……今いる場所の方が安全かもしれない」
 ふたりで落ち込んでいる綾子を励ました。
「いったい、どこへいってしまったんだろう。あの子、可哀相に……今頃、どうしてるんだろうか?」
「きっと、見つけますから……」
「あたしが、一年前に家出したばかりに……あの子にツライ思いをさせてしまった。みんな、みんな、あたしが悪いんだ。ごめんよ。母さんを許しておくれ……」
 綾子はぬいぐるみを抱きしめて、絞り出すように嗚咽を漏らす。バックミラーに映った崎山もしょんぼりして悲しそうだった。
 帰りの車の中は、まるでお通夜のように重たく沈んだ空気なってしまった。



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   創作小説・詩

by utakatarennka | 2017-04-30 14:54 | 恋愛小説
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   第十四章 愛する心を封印して

「涼子さーん!」
 お昼の休憩時間に隣接する病院の中庭のベンチで本を読んでいたら、小走りで綾子がやってきた。
「あら、綾子さん」
 煙草と携帯灰皿を持って涼子の隣に座った。
「あのね、崎ちゃんさぁー、明日から職場に復帰できるって!」
「それは良かった」
「涼子さんに会いたがってたよ」
「まさか、そんなこと……」
 涼子はあの日、崎山の家にお見舞いに行ってから、その後は一度も行っていない。二人きりになるのが怖かったから……これ以上、崎山に好意を寄せると、自分を抑えられなくなりそうだったから――。
 綾子は崎山のケガに責任を感じて、あれから毎日、自宅にお弁当を届けに行っていたようである。
「崎ちゃんが元気になったら、すぐに娘を連れ出しにいけるんだ。セーターは小包で送ったけど……ちゃんと、あの子の手に届いたか心配だよ」
 やけに機嫌の良い綾子はひとりでしゃべっている。
「そいで、あたしねぇ、アパート引き払ってさ、崎ちゃんの家に住まわせて貰うことになったんだよ」
「えぇー、本当ですか?」
「うん。屋敷は広いし空き部屋ならたくさんあるから、ここで娘さんと一緒に暮らしたらいいよって崎ちゃんが言ってくれたんだ。家賃代わりに美味しいご飯を作ってくれたらオーケイだってさぁー」
 綾子は、楽しそうに「あははっ」と笑った。
「あたしも崎ちゃんが傍に居てくれたら心強いからね」
「何しろ、スクーターにでも突進する人だからボディーガードには最高です」
 たぶん、綾子はDV旦那の報復を恐れているのだろう。崎山と暮らしていたら、その点まず安心である。
「それから涼子さんも聞いているだろう? 崎ちゃんが、いずれあの家でグループホームを始めたいって、あたしもスタッフに加えて貰うんだ。今は調理師の資格しか持ってないけど、勉強してさ、あたし栄養士の資格も取るよ。崎ちゃんの役に立ちたいんだ!」
「わたしも介護福祉士とケアマネージャーの資格も取るつもりよ」
「うんうん。あたしらも頑張って。崎ちゃんを応援しようね」
「そうね、みんなで理想のグループホームを作りたい!」
「崎ちゃんって、ほんと良い奴だろう?」
「ええ……」
「あんたたちのことも応援してるよ!」
 綾子の励ましに、涼子は俯いて薄く笑った。
 崎山との恋愛ばなしを微妙に避けていることを綾子も気づいていた。
 過去に何があったのか知らないが、まだ若いのに……勿体ないと思う。誰だって触れられたくない過去はあるだろう。自分だってそうだったから……それでも綾子から見て、崎山は性格もいいし、人間の器が大きい。きっと崎ちゃんなら、涼子さんの心の傷を癒してくれる筈だ。お節介だと思われても、この二人には幸せになってほしいと、綾子は願ってしまう。
 その後、何となく会話も途切れてしまって、お昼の休憩が終わると、それぞれの持ち場へと帰っていった。

 週末に、涼子のパソコンに田村カツエから『ホームで社交ダンスの発表会をするので、ぜひ見にきてください』とメールが届いた。しばらく、カツエとも会っていないので、涼子は発表会へ出掛けることにした。
 その日、ホームでは何組かのペアがダンスを披露した。みんな生き生きと楽しそうに踊っている。
 いよいよ最後に登場したカツエは真紅のドレスで、パートナーの男性と明るいラテンのリズムでマンボを踊っていた。艶やかな衣装で達者に踊るカツエはとても八十一歳には見えない。その姿は老いても、なお人生を楽しんでいるようだった。
 カツエはホームのアイドル的存在で、みんなから拍手喝采を受けていた。

「カツエさん、お疲れさまでした」
「きれいなお花ありがとうね」
 涼子が持ってきた、カサブランカとカスミ草を組んだ花束をカツエはとても喜んでくれた。
「ダンスとっても素敵でした」
「日頃の成果をご披露したまでだよ」
 社交ダンスの発表会が終わって、涼子とカツエは談話室でコーヒーを飲んでいた。カツエの傍には曾孫の少女、沙菜(さな)がいる。中学二年生の彼女は二学期から不登校が続いていたが、「家で引き籠ってるくらいなら、ひいおばあちゃんのところに遊びにおいで」とカツエにいわれて、毎日、カツエの住むグループホームに遊びにきている。
「沙菜や、このお花をグレマのお部屋に持っていって、お水につけといておくれ」
「はーい、グレマ」
 カツエから花束を預かると沙菜は部屋に持って行った。
「グレマ? どう言う意味ですか」
「それね。沙菜があたしに冗談で付けた呼び名だよ。おばあちゃんが『グランドマザー』でグランマだろう。だから、ひいおばあちゃんは『グレードアップマザー』でグレマなんだって。面白いだろう」
 そう説明してから、カツエは楽しそうに笑っていた。沙菜はどこかカツエに似ていて自由な発想を楽しむ少女のようである。
「あの子は今、学校にいってないからね。両親はすごく心配しているけどさ……一年や二年レールから反れたって、どうってことないよ。いつだって元に戻せるんだから。人生は机で勉強することよりも、外に出て体験する方がずっと勉強になるんだ」
「確かにその通りかも知れませんね」
「それにあの子はここで、ちゃんとボランティアをやっているよ。配膳やお掃除の手伝いをしている良い子なんだ」
「カツエさんといると誰でも前向きになれるんです」
「そうかい?」
「ええ」
「……なんか、涼子さん元気がないよ。表情がいつもより曇ってる」
「えっ?」
 涼子の顔を見て、カツエがそう言った。さすがに鋭いと涼子は驚いた。最近、崎山のことで悩んでいたので、そのことを見透かされたようだ。そこで、カツエに相談してみようかと思った。
 自分に好意を持ってくれている人がいるが、過去に結婚問題で人を傷つけたことがあるので、自分は人を好きになる資格もないし、結婚など考えてはいけない人間なんだと――カツエに話した。
「それで涼子さんは、その人のことをどう思っているんだい?」
「……嫌いではないし、良い人だと思っています」
「だったら、自分の気持ちを封印することないじゃないか」
「でも……」
 困ったように涼子は俯いた。
「愛することは生きる原動力だよ。愛することを止めたら生きる喜びもない」
「だけど……」
「あたしはいっぱいの人を愛しているよ。家族、友達、仲間、ここのスタッフたちも。みんなからいっぱい愛を貰って生きている。サヨさんは自分が愛されていないと思って、孤独になって、自分自身を愛せなくなってしまったから、自ら死を選んだんだ。可哀相な人だった……」
 たしかにカツエには愛が溢れている。――それがカツエの元気の源だったのだ。
「グレマは彼氏がいるのよ」
 いつの間にか、沙菜が戻ってきて横から口を挟んだ。
「あらっ! 本当ですか? カツエさん良かったね」
「女は愛することを止めてはいけないよ」
 その言葉に自分で照れて「ふふふ」とカツエは笑った。
 ふと見ると談話室の戸口に、先ほどカツエとペアでダンスを踊っていたロマンスグレーの上品な紳士が立っている。もう衣装を着替えていて、こちらの様子を窺っているようだ。涼子と目が合って軽く会釈をされた。
「あっ! こんな時間」
 慌ててカツエが立ち上がった。
「これから、デートなのよ」
「まぁー」
「沙菜や、グレマの着替えを手伝っておくれ! 涼子さんまたねぇー」
 真紅のドレスのカツエは、沙菜を連れて自分の部屋へと帰っていった。

 そして談話室に一人残された涼子の胸には、『女は愛することを止めてはいけないよ』といった。――カツエの言葉がずしりと重くのしかかる。



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   創作小説・詩

by utakatarennka | 2017-04-29 14:23 | 恋愛小説
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   第十三章 引き裂かれたバースディ

 ――今日は優衣の十九歳の誕生日だった。
 朝刊を配っている時に、そのことを圭祐に告げたら、会社を休んで優衣を映画館へ連れていってくれた。その後、素敵なレストランで美味しいランチを食べて、携帯ショップに寄って、誕生日プレゼントに携帯電話を買ってくれた。もちろん名義は圭祐だが、連絡用に優衣が持ってなさいと渡された。
 父に反対されて、今まで携帯を持つことができず、肩身の狭い思いをしていた優衣にとって、何よりも嬉しいプレゼントだった。
 これで圭祐が早起きしなくても、いつでも連絡を取り合える。――そう思っただけで、二人の距離がぐっと縮まったような、そんな気分になった。

 駅前のロータリーで圭祐のビートルから降りて、優衣は停めておいた自転車に乗って帰宅する。
 自転車のペダルを漕ぎながら、今日は夢のように楽しかったぁーと、今日一日を思い出して優衣の口元がほころぶ。圭祐と一緒にいると心から安らげる。こんな気持ちになったのは久しぶりである。いつも父親の影に脅えて暮らす優衣にとって、圭祐は心の拠り所になりつつある存在だった。
 大好きだった亡き兄の健人を想う気持ちと、圭祐を想う気持ちは、ちょっと違うような気がする。それが、なんなのか優衣にはよく分からないが、心の底から湧き上がる熱い想いに戸惑っている。だけど……優衣は思う、《たぶん、あの人はあたしに同情しているだけなんだわ》あんな立派なマンションに住んで、外車に乗っているような人が、不細工で貧乏な自分なんか……きっと、気まぐれで優しくしてくれているのに違いない。――これは、いつか醒める夢なのだと優衣は思っていた。

 自転車が自宅に近づいてきて、古い二階建ての家の屋根が見えてきた。何だか陰気臭い家だ、母が居た頃には玄関の周りにプランターを並べ花を育てていたが、今は手入れする人もなく、ぜんぶ枯れてしまった。玄関の前には古いタイヤや壊れた家電品などを放り出してあり混沌とした感じなのだ。
 最近、父の義男は仕事にもいかないでずーっと家に居る。
 どうやら職場でトラブルがあって仕事を干されているようだ。父は無口で小心な男だが、何か気にいらないことがあると、いきなり激昂して罵詈雑言を吐き出すので、他人から相手にされなくなる。――そんな状態で生活が逼迫している辻本家では、優衣の収入だけが頼りだ。
 しかし、優衣の新聞配達とパチンコ店の清掃の仕事では、せいぜい月に六万、七万円の収入にしかならない。もっと稼げる仕事を探せと父から口喧しく言われている。 だから父には仕事を探しに行くといって、今日は家を出てきた。きっと帰ったら、仕事は見つかったかと煩く訊かれることだろう。――それを考えた途端に、優衣はひどく憂鬱な気分になった。

 自宅に着いて玄関の前に自転車を停めた。まだ六時前なので今から食事の支度をすれば間に合う。父はいつもきっちり七時に食事が出来てないと機嫌が悪いのだ。
 玄関の鍵を優衣が開けていると、家の前に宅配便の自動車が停まって、自分宛ての小包を渡された。誰だろうと宛名を見たが知らない女の人の名前だった。それほど重い物ではない、しかも配達日指定までされていた、優衣の誕生日の今日だった。
 よく見ると、それは見覚えのある字だ《もしかしたら……お母さん?》逸る気持ちで優衣は小包を開けた。
 小包の中には手編みと思える若草色のセーターが入っていた。
 そして一枚の便箋が――。


   『お誕生日おめでとう。
   優衣、元気に暮らしていますか。
   お母さんも頑張っています。
   きっとおまえを迎えにいくから
   もう少し待っていてください。
                 母より』


 それは家出していた母、綾子からの小包だった。
 セーターは母の手編みのようだ、ちゃんと自分の誕生日を覚えていて、母がプレゼントを贈ってくれたのだ。そして、おまえを迎えにいくと書いてある《あたし、お母さんに捨てられたんじゃないんだ》優衣は嬉しかった。
 若草色のセーターを胸に抱きしめて泣いた。
 涙が後から後から……溢れ出して……止まらない《お母さんの匂いがする》一年前に家出した母親が、恋しくて、会いたくて、優衣は泣きじゃくった。

 その時である。突然、乱暴に玄関のドアが開いて父の義男が出てきた。
「そんな所で何をやっている!」
 優衣の持っているセーターを見た。
「それは何だ?」
「……な、何でもない」
「貸してみろ!」
「いやー!」
 セーターを取り上げようとしたので、優衣は抵抗した。
「なんだとっ! このバカ娘がぁー」
 怒った父は優衣の長い髪を引っ張って、無理やり家の中に引っ張り込んだ。そして箱に入っていた便箋を読んで、それは綾子が送ったものだと分かったようである。
「これは母さんが送ってきたものだな。こんなもん送ってきやがって!」
 いよいよ激昂した父は、優衣からセーターを奪おうとしたが、抱え込んで離さないので殴ったり蹴ったりした。それでも優衣は必死でセーターを守った。
「こんちくしょう! このガキ逆らいやがる」
 そう言うと、父は奥からハサミを持ってきた。
「うっとうしい髪しやがって、俺が切ってやる!」
「やめてぇー!」
 優衣の髪を鷲づかみしてハサミを入れた。優衣は悲鳴を上げて逃げ回ったが、父は執拗に追いかけてきて髪をザクザクと切った。
 そして、泣き叫ぶ優衣の頬を拳で何度も殴りつけた。


   あなたの空と わたしの空は ツナガッテイル

     あなたの時間と わたしの時間は ツナガッテイル

   あなたの想いと わたしの想いも ツナガッテイル

     だから今日も 笑顔で生きていける

                        優衣


 携帯電話のお礼にと、優衣が即興でこんな詩を書いてメールで送信してくれた。
 優衣にとっては始めての携帯電話だったので、初めは使い方が分からないようだったが、圭祐が操作の仕方を丁寧に説明したら、すぐに慣れて初めてのメールを打って、この詩を圭祐に贈ってくれたのだ。
 とても良い詩なので『保存』をかけて携帯に取っておこうと圭祐は思った。

 ――圭祐の携帯が鳴った。
 画面表示を見たら『辻本優衣』と出ている。夕方別れたばかりなのに、どうしたのかと思ったが、買って貰ったばかりの携帯電話が嬉しくて、早速かけてきたのかと思って出てみると――。
「もしもし、圭祐です」
「…………」
 どうしたのだろう? 返事がない。
「もしもし、優衣?」
 微かに泣き声のようなものが聴こえてきた。
「どうしたの? 何があったの?」
 絞り出すような嗚咽が携帯から聴こえてくる。優衣の声に違いない。
「優衣、優衣! どこにいるんだ?」
 泣き声は号泣に変わっていった。きっと優衣に何かあったのだ、圭祐は心臓がドキドキした。
「優衣、落ち着いて……今、どこにいるのか教えてくれ!」
「……こ……うえん……」 やっと、それだけ聴き取れたが、いったいどこの公園なのだろう。圭祐と優衣の家の間には大小三ヶ所の公園があるのだ。
「どこの公園?」
「……ここ……の……」
 ――分かった。どうやらメゾン・ソレイユの敷地内にある公園に居るようだ。
「優衣! すぐいく、そこで待ってろ!」
 圭祐は携帯を握ったままで、急いで部屋から飛び出した。
 マンションのエレベーターに飛び乗ったが、エレベーターの速度が遅く感じるくらいに気が焦っていた。やっと一階に着いて扉が開くと一目散に飛び出して走っていった。

 メゾン・ソレイユの敷地内に小さな児童公園がある。昼間は子どもを連れた若いママたちで賑わうが、夜にもなるとほとんど人影もない。仄暗い街路灯にぼんやりとシルエットが浮かんで見えた。花壇の傍のベンチにぽつんと座って女の子が泣いている。
「優衣!」
 名前を呼んで、急いで傍へ駆け寄った。その声に優衣がゆっくりと顔を上げた。
 ――優衣の顔を見た瞬間、驚きとショックのあまり……圭祐は言葉を失った。
 左の頬から顎にかけて赤く腫れあがっている。瞼も腫れて半分塞がっていたし、唇は切れて血が滲んでいた。さらに悲惨なのは長かった髪がザクザクに切られていた。
《――あまりに酷い……》この痛々しい優衣の姿に……圭祐は思わず涙が零れた。

「優衣、いったい誰にやられたんだ?」
「お父さんが……」
 その言葉を訊いた途端に、《自分の娘に、こんな酷いことをする奴は絶対に許せない!》圭祐は怒りで腹わたが煮え滾るようだった。そんな男は殺してやりたいとさえ思った。泣きじゃくる優衣の肩を強く抱きしめながら言った。
「優衣、もうあんな父親が居る家に帰らなくていい! 僕の傍にいろ」
 圭祐の言葉に、こくりと頷いた優衣はもうあの家には二度と戻りたくないと思っていた。
「優衣はこの手で守る!」
 ――そう宣言して、包み込むように優しく優衣を抱きしめた。そんな二人のシルエットを夕闇が呑み込んでいった。



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   創作小説・詩

by utakatarennka | 2017-04-28 11:07 | 恋愛小説
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   第十二章 崎山の素顔

 救急車で搬送され、外科病院に収容された崎山だが、命には別条なく、スクーターに体当たりした時に、右肩を捻挫したようで亜脱臼だと診察された。
 涼子とすっかり酔いが醒めて青くなっている綾子は、救急車に乗って病院まで付き添っていったが、診察が終わって出てきた崎山は、入院するほどのこともないと、包帯、絆創膏やテーピングで固定されて、しばらく通院することになった。
 それにしても、走ってきたスクーターに体当たりして、捻挫くらいで済んだのだから、崎山の体力は凄い。さすがスポーツマンだと涼子は驚いた。
 ふたりで自宅まで送るというのに、崎山は「これくらいのケガはヘーキヘーキ!」と病院からタクシーを呼んで、ひとりでさっさと帰ってしまった。
 そして涼子は「自分のせいで崎ちゃんにケガさせてしまった……」と、すっかりしょげて落ち込んでいる綾子を、慰めながら、彼女のアパートまで送っていくことになった。

 ごみごみした住宅街の古い木造アパートの二階に綾子は住んでいる。
 涼子はアパートの前で挨拶して帰ろうとしたが、「お茶だけでも飲んで行ってよ」と、しつこく引き留められて……仕方なく二階にある綾子の部屋まで上がることになった。
 室内は玄関を入って、三畳ほどの台所と手前に四畳半と奥に六畳の和室があり、以外と広いアパートである。あまり家具はないが、洋服ダンスと整理ダンス、四畳半の部屋には炬燵が置いてあって、そこに座るようにと勧められた。
「今、お茶入れるから炬燵に入って待っててね」
 そういい置いて、綾子は台所へ立っていった。
「どうぞ、お構いなく……」
 なんとなく室内を見回すと、座っている炬燵のわきに若草色の毛糸が入ったバスケットが置いてある。何を編んでいるんだろうと、なに気なく涼子は中身を覗いてしまった。
 暖かそうなカシミヤ毛糸でセーターを編んでいるようだ。綾子が着るにしてはサイズが小さいように思えたが……。
「お待たせ」
「あ、ゴメンなさい。勝手にセーター見ちゃった」
「あらま、恥ずかしいわ。編み物は苦手なんだけど……娘の誕生日にセーター送ってあげたいと思って」
「手編みのセーターなんて素敵ですね」
「実はセーターは初チャレンジで下手なんだけど……せめて、一目一目愛情を込めて編んだんだぁー」
 そういうと綾子は薄く笑った。
「きっとお母さんの想いが伝わりますよ」
「セーターは小包で送ろうかと思うんだけど……」
「そうですね。崎山くんがケガして、娘さんを連れ出しにいけなくなっちゃったし」
「いつか娘と一緒に暮らせるようにと二間あるアパートを探した。早く娘に会いたい……」
 別れて暮らしていても、娘との断ち難い親子の絆がある。娘を想う綾子の顔には、苦悩の皺が刻まれていた。

 綾子がお盆の上のカップを涼子の前に置くと、ほんのりと甘い香りがした。「どうぞ」
「あらっ、ゆず茶ですか?」
「寒い時には温まるからね」
「うーん、とってもいい香り」
 涼子はゆずの香りを吸い込んだ。
「涼子さんって、真面目なタイプだけど……なんか可愛い人だよね」
「えっ? わたしって可愛くない女ですよ」
「そんなことないって! いつも一生懸命に頑張ろうって気を張っているところが健気で、なんか放って置けないって、男の人はそう思うかもしれないよ」
「――誰も思ってませんよ。そんなこと」
「崎ちゃんはそう思ってるさ」
「……まさか?」
「あの子は、あれで真剣に涼子さんを好きなんだよ」
「……そんなことは、今は考えられません」
 涼子は困ったように首を傾けた。
「そうかい、まぁーその内考えてやってよね」
 これ以上、しつこく言ったら涼子に嫌がられると思って、綾子は崎山の話を止めた。お節介が過ぎたかもしれないと内心反省していた。
 涼子はゆず茶を飲みながら、崎山のケガの具合を心配していたが……好きとか、そういう具体的な感情を、彼に対して持っていないと自分ではそう思っている。

 翌日、涼子は『ゆーとぴあ』を早退して、崎山の家にお見舞いにいくことにする。 綾子からは「崎ちゃんに食べさせて!」と、特大のお弁当箱を渡された。崎山のお見舞い品は、花やお菓子よりもボリュームのある食べ物が良いと思い、大好きだといっていたフライドチキン10ピースとペットボトルの1リットルのコーラ3本持っていくことにした。
 お見舞い品だけでずいぶんな重さだった、涼子は腕が痛くなってきたが、『ゆーとぴあ』で教えて貰った、崎山の住所と地図を見ながら家を探していた。

 手書きの地図を頼りに歩いていく内に、閑静な住宅街に入っていった。
 古い建物の家が多いが、どこも立派な門構えで敷地が広い。ひょっとして、ここら辺は高級住宅街なのかと思い、キョロキョロしながら涼子は歩く。書かれた番地に近い場所へきてみたら、ひと際大きな屋敷が建っていた。
 白い漆喰の塀でグルリと周りを囲い、門扉は格子戸の付いた純和風で立派な構えである。まるで高級料亭みたいだと涼子は思った。格子戸の隙間から中を覗くと、玄関までかなりの距離があり、よく手入れされた庭木が見えた。建物は平屋だが中はかなり広いようだ。犬の鳴き声がするので番犬でも飼っているのだろう。
 あまりにも、立派な屋敷だったので涼子は圧倒されてしまった。確かに門扉には『崎山』と表札が挙がっていたが……なんだか、入り難いのでこのまま帰りたい気分になった。――あの崎山の庶民的なイメージから、とても想像もできない大豪邸だった。
 少し迷ったが、もしかしたら家を間違えている可能性もあるので、一応チャイムを鳴らしてみた。チャイムにはカメラが付いているので、あちらからも涼子の顔が見えているはずだ。

 ――ピンポーンとチャイムが鳴った。
 こんな時間に誰だろうと、崎山は長い廊下を通って玄関の方へと歩いていく。ここは死んだ祖父が自分のために残してくれた屋敷だが、古臭い日本家屋で何しろだだっ広い。三十畳の大広間とか納戸とか裏庭には蔵まで建っている。
 そのまま、民芸博物館にでもなりそうな家だが、ずっとこの家で育った崎山は使い難いがここが大好きだった。だから祖父母や母との思い出の詰まったこの家から出ていって、お洒落なマンションで暮らしたいとか思わなかった。
 二年前母が亡くなって、ひとりになった時、遠縁の不動産業者が是非、売却してマンションを建てるようにと、しつこく何度もいってきたが、崎山は頑として応じなかった。
 友人たちからも、こんな広い家にひとりで住んでいたら鬱病になるから、一緒に住んでやろうかとまでいわれたが、大きなお世話だ、放っといてくれ! と不愉快に思い、その申し出を断った。母親を亡くしたばかりで傷心の崎山は、そんな言葉を親切だと受け留められない精神状態だったのかもしれない。
 だから、今は愛犬の黒いラブラドール・レトリーバーの『黒豆』とふたり暮らしなのである。

 モニターカメラを覗くと涼子の顔が見えた。
 びっくりして崎山は慌てて身づくろいをした。昨夜はケガで風呂にも入っていないし、会うのが恥ずかしかったが、思いがけなく涼子がきてくれたことがものすごく嬉しかった。
「あ、あれ、涼子さん? ちょ、ちょっと待っててね」
 玄関の扉を開けると、愛犬の黒豆が嬉しそうに駆け寄ってきた。黒豆はいつも広い庭で放し飼いになっている。崎山に飛びついて尻尾を振って愛情を示す、全身真っ黒でちょっと怖い感じがするが、実はとても人懐っこい性格の犬である。
 門扉の向こう側から、涼子がこっちを見ていた。
「ゴメンよ。犬が飛び出すんで鍵をかけてるんだ」
 右肩を脱臼しているので、左手で内側の鍵を開けて涼子を中に入れてくれた。
「崎山くんって、すごいお屋敷に住んでいるのね」
「古いだけが取り柄の家ですよ」
「はい、これ。崎山くんの好きなもの持ってきたわよ」
「おぉー! フライドチキンだ。これが食べたかったんだぁー」
 相好を崩してはしゃいでいる。一緒に黒い犬も尻尾を振っていた。

 この屋敷は伝統的な日本家屋である。障子、床の間、書院窓、欄間、広縁、まるで日本旅館みたいだと思った。中庭の見える客間へ涼子は通されたが、中庭には築山があり、錦鯉が泳いでいる池もあるし、植木はきれいに剪定されていた。ぐるりと見回して《こんな屋敷を維持していくのには、相当なお金がかかるんだろうなぁー》と、ぼんやりと涼子は考えていた。
「お待ち!」
 お盆に湯のみを載せて崎山が運んできた。「肩が痛いのにお茶なんかいいのに……」
「大事なお客様だからお茶くらい出さないと、ご先祖様に叱られるからさ」
 そういって「えへへ」と笑う崎山が、こんな豪邸のお坊ちゃんとは到底思えない。
「ケガは大丈夫?」
「うん。後は日にち薬で治します。それよりスクーターの人は大丈夫だったかなぁ?」
「ええ、スクーターは倒れたけど、運転していた人は大丈夫そうだったよ。自分も脇見運転で、人が飛び出したのに気づかなかったっていってたし。それより乗ってたスクーターに体当たりされてびっくりしてたわよ。ホントに崎山くんたら無茶するんだから……」
「だってさぁー、綾子さんがケガしたら『ゆーとぴあ』の利用者のご飯を誰が作るのさ? 俺がケガした方がマシじゃん!」
「あははっ」
 崎山のヘンな理屈に思わず涼子は笑った。――この男は何を考えているのかよく分からない。

「あぁー、美味かった!」
 フライドチキンを八個食べ、コーラを1リットル飲み乾して、崎山が満足そうに呟いた。涼子は食べている崎山を見ているだけで、もう満腹になったような気がする。――こういう所が、子どもみたいで母性本能をくすぐるのかもしれないと涼子は思った。
「こんな広い家に、本当にひとりきりで住んでるの?」
「ああ、お袋が亡くなってから、ひとりと一匹暮らし」
 中庭のガラス戸の向こう側で、黒豆が嬉しそうに尻尾を振っている。
「お掃除なんかどうしてるの?」
「俺、こう見えて意外と掃除好きなんだ。ま、使ってる部屋だけだけど休日にやってる」
「そうなの。でもお庭の植木の手入れは大変よね? 植木屋さんに頼むの」
「あははっ。それが……俺、通信教育で『庭園管理士』の資格を取ってるんだ」
「えっ? 何それ」
「庭師の資格だよ。福祉介護士の専門学校へ通ってた時に、アルバイトで庭師の手伝いやってたんだ」
「へぇー、凄い! スポーツマンだと思ったら、そんな特技があったなんて……」
 涼子に褒められて、崎山は照れ臭そうに「えへへ」と笑っていたが、底知れぬ能力を秘めた男である。
「お祖父さんが大事にしていた庭木を枯らせたくなかったんだ。ほらっ、築山の所に梅の木があるだろう? ガキの頃、いたずらしてお祖父さんに、あの木に縛られたんだ。昔風の躾だから……」
「あははっ」
「梅の木に縛られて泣いていると、お祖母さんがジュースと飴を持ってきてくれたっけ。縄を緩めて、お祖父さんの機嫌が直るまで大人しくしているんだよって……」
 崎山はどこか遠くを見るような目をして話している。この家の中には、捨てられない記憶や思い出がいっぱい詰まっているのだろう。

「俺、将来、この家でグループホームを経営したいと思っているんだ」
「ここでグループホームを?」
「うん。お年寄りたちが我が家のようにくつろげる。こじんまりしたグループホームを作るつもりだ」
「ええ、この家なら広さも環境も申し分ないと思うわ」
「――その時には、涼子さんもここにきてくれるかな?」
「えっ?」
「一緒にグループホームを運営してほしいんだ」
「もちろんスタッフとして、お手伝いさせてください」
「スタッフじゃなくて……そのう、俺のパートナーとして……一生、そばにいて……」
 崎山は顔を真っ赤にしていた。
 たぶん、それは崎山のプロポーズの言葉だったのかもしれないが……。しかし、涼子は聴こえない振りをする。
「そうねぇ、優秀なスタッフだと認めて貰えたら、ずっと働きますから……」
「……うん。涼子さんには、ずっと一緒に働いて貰いたい!」
「ええ、そうさせて貰います」
 崎山の気持ちは涼子にも分かっていた。
しかし、婚約破棄して傷つけた元婚約者のことを思うと……とても結婚なんか考えられない、自分ひとりが幸せになるなんて申し訳なくて……けっして崎山のことが嫌いではないが、もう恋はしないし、結婚は出来ないと、そう心に決めた涼子だった。



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   創作小説・詩

by utakatarennka | 2017-04-27 10:20 | 恋愛小説
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   第十一章 母と娘の絆

「涼子さーん!」
 振り返ると、崎山が後ろから追いかけながら涼子の名前を呼んでいる。仕事が終わってタイムカードを押して帰ろうと、ロッカールームに向かって歩いていた時のことである。
 涼子が立ち止まって待っていると、息を切らせながら崎山がやってきた。
「どうしたの?」
「――涼子さんって、以外と歩くの早いなぁー」
「そうかしら? 普通よ」
「後ろから何度も呼んでるのに、さっさっと歩いていくから……シカトされてるのかとちょっとヘコんだ」
「ゴメン! 聴こえてなかったわ」
「あ、さては仕事のことなんか考えていたでしょう?」
「あらっ、バレた」
 たしかに、涼子は仕事のことを考えながら歩いていた。
「涼子さんって真面目だからなぁー。俺なんか仕事終わったら。晩飯なに食べようくらいしか考えてない」
「あはっ、崎山くんらしいわ」
「だけど……気持ちの切り替えって大事だよ。俺、ラグビーやってたでしょう。試合でミスとかして、それをいつまでも引きずってると実力が発揮出来ないんだ。――出来るだけ、早く気持ちを切り替えないと仲間にも迷惑かけちゃうからさ」
「そうね。崎山くんのいう通りかも……」
 涼子は生真面目なタイプなので、いろんなことがいっぺんに出来ない。それはたぶん気持ちの切り替えがヘタなせいかもしれない。結婚に関しても『介護』の仕事と両立できないのが嫌で婚約破棄したくらいなのだから――。つくづく不器用な人間だと涼子は分かっていた。
「そうそう、綾子さんから今週の金曜日に飲み会どうだろうって伝言がきてる」
「金曜日?」
 そういえば、綾子と病院の中庭でそんな約束をさせられたような記憶が……。
「俺はお酒が飲めないけど……三人でいこうよ」
「ええ、別に構わないけど……」
「ホント? ヤッホー! 涼子さんと飲み会なんて超ハッピーだぁー」
 子どもみたいに崎山がはしゃいでる。無邪気な男で面白い。たぶん、涼子とは間逆のタイプである。だが、そんな崎山には自分にない『強さ』を感じているのもたしかだった。

 綾子が飲み会に選んだお店はこじんまりした居酒屋で、料理も美味しいと評判の店である。三人だが掘り炬燵がある個室に案内された。たぶん、予約を入れておいたからだろう。狭い部屋だが、三人で顔を突き合わせてしゃべるには丁度よい広さである。
 さっそく崎山がメニューを見て、あれこれ注文を考えていた。
 涼子にも注文を訊かれたが、特に食べたい物もないし、好き嫌いもないので、崎山と綾子に任せることにした。
 取りあえず、ビールを頼んでコップに注ぐとそれぞれが手にして掲げた。
「カンパーイ!」
「お疲れさまー」
 乾杯して互いの仕事を労う。お酒の弱い崎山はコップに半分ほどのビールを飲んだだけなのに、しばらくするともう顔が真っ赤である。
「お酒弱いねぇー、もうお猿のお尻みたいに真っ赤かだよ」
 綾子が、崎山の顔を見てからかっている。
「俺は食べるの専門だから。ご飯ならいくら食べても大丈夫!」
「崎ちゃんは、頭がお子ちゃまだからお酒がダメなんでしょう」
「あぁー、綾子さんひどいこと言うなぁー」
「あははっ」
 ふたりで冗談をいい合っている。その微笑ましい光景を涼子はにっこりしながら眺めていた。その内、注文の料理が運ばれてくると、崎山はいきなりカツ丼を食べ始めた。
「なんで、カツ丼なんだよ!」
 あきれ顔で綾子が訊く。
「いやー、俺にとっちゃあ、お食事前の前菜がカツ丼なんよ」
「涼子さん、こいつ面白い奴でしょう?」
「あははっ、ホントに……」
 綾子は焼酎のお湯割りを飲みながら、涼子にも話を振ってきた。
「あたしにとっちゃ、崎ちゃんは息子みたいなもんでさぁー」
「おっきい息子さんですね」
「そうでもないさ……もし生きてたら、崎ちゃんより一歳年下の息子がいたんだけど……ね」
「あ、ごめんなさい。辛いこと思い出させて……」
「いいよ。どんなに悲しんでも死んだ者は戻って来ないってことが、最近やっと分かってきたんだ。これも崎ちゃんのお陰かもしれないけどね」
「綾子さん、死んだ息子さんのことをいつまでも悲しんでいても、息子さんは天国で喜ばないよ」
 手羽先をかぶりつきながら、崎山が良いことをいう。二杯目のお湯割りを飲みながら、綾子はしんみりした顔でしゃべる。
「出来のいい息子でさ、家族の自慢だったよ。あの子が死んでから家族がおかしくなったんだ」
「ショックから立ち直れないでいるんでしょう」
「死んだ者の記憶に縛られて、生きている者が大事なものを失ってしまうのは、本末転倒なんだ」
 いつも冗談ばかり言っている崎山が、やけにシリアスなことをいう。
「だけど……家族には絆があるから……」
 つい、涼子が代わりに反論してしまう。三杯目のお湯割りのグラスをテーブルにドンと置くと、綾子が一気にしゃべり出した。
「あたしさぁー、今、家出中なんだよ。旦那と娘を置いて家を出てきちゃったんだ。旦那がDVで、もう我慢ができなくて……殴られるのが怖くて……娘を置いて、あたしだけ逃げ出した」
 綾子のいきなりのカミングアウトに涼子は言葉を失った。
「かれこれ一年経つよ。やっと生活が落ち着いてきたら……娘に会いたくて……」
「娘さんは、大丈夫でしょうか?」
 その問いかけに綾子の顔が、泣き出しそうに歪んだ。
「あたし……娘に悪いことをした。もしかしたら、あたしの代わりに娘が殴られてるかもしれないんだ」
 その言葉に崎山は食べるのをピタリと止めた。
「綾子さん、もしも、そうだったら娘さんを早く助けてあげないとダメだよ」
「崎ちゃん! 娘はとても繊細で傷つきやすい子で……自殺しかねない。何度か家の近くまで様子を見にいったんだけど、あの子は昼間は外に出ないんだよ。おまけに旦那が家に居て、会いにもいけない。電話かけても、いっつも旦那が出るし……あたしも旦那に見つかるのがすごく怖いんだよ」
 よほど夫の暴力が怖いのか、綾子の顔は恐怖に引き攣っていた。

「よし! 綾子さん、一緒に娘さんに会いにいこう。俺も付いていくから」
 キッパリと崎山が宣言した。
「崎ちゃん! ホントに付いてきてくれるの?」
「おう! 任せとけって!」
 身長180cm以上もある立派な体躯の崎山が、一緒に付いてきてくれれば、もう怖い物なしだ。しかもラグビーをやっていた青年とケンカをして勝てる者はそうはいないだろう。
「ありがとう。崎ちゃん……これで、やっと娘とも会える……」
 綾子は目頭を押さえていた。そんな酷い父親と暮らしているのなら、一刻も早く救い出してあげたいと涼子も思った。
「綾子さん、わたしも付いていきます。何かの役に立つかもしれないし、大学時代の友人で弁護士事務所に勤めている人も知っています」
「涼子さんまで……ありがとう」
「みんなで娘さんを救出にいこうぜっ!」
「これで、やっと連れ出せるよ。もうすぐ娘の十九歳の誕生日なんだ、それまでに会える。本当に嬉しい……」
綾子は感極まって泣き出した。 そんな綾子を励ますように、崎山が冗談を言って笑わせている。――この男は大きな身体と同じくらいの抱擁力を持っていると涼子は思った。

 今度の日曜日に、綾子さんの娘を連れ出しにいく計画を三人で決めた。
 その後、喜んだ綾子はかなり焼酎のお湯割りを飲んでいた。居酒屋を出る頃には、もうべろんべろんに酔っ払って足がふらついていた。
 その様子を見て、心配だから送っていくという崎山の言葉に綾子は、
「いいから、いいからー。崎ちゃんは、涼子さんを送ってあげなさいよ」
 そういって、「バイバイ」と手を振って、ふらふらしながら歩き出した。
「綾子さん、大丈夫かしら?」
「危なっかしいなぁー。ちょっと待ってて、タクシー拾って乗せてくるから……」
 崎山は綾子の方へ走っていった、通りに出ると幹線道路も走っているので交通量が多い。酩酊状態の綾子を捕まえて、崎山は「ここに居るように」といい置いて、タクシーを探し始めた。
 その時だった、酔っ払った綾子がふらりと道路へ飛び出した。歩道側だったので、一台のスクーターが角を曲がって走ってくるのが見えた。
「綾子さん!」
 涼子は大声で叫んだ。
 その声に気が付いた崎山がすごい勢いで綾子の方へ走っていった。綾子を助けるために、なんと崎山はスクーターに突進して体当たりをしたのだ。間一髪、スクーターは崎山の体の楯につんのめるようにして、ゆっくりと転倒して止まった、そして……崎山も倒れた。
 その側で、綾子は尻餅を着いて茫然としていた。
 涼子は慌てて二人の方へ走り寄ったが、崎山は腕を押さえてうずくまっていた。……涼子は震える指で携帯から救急車を呼んだ。



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   創作小説・詩

by utakatarennka | 2017-04-26 13:55 | 恋愛小説
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   第十章 過去は振り向かない

 優衣の母親捜しの件で大学時代の先輩、片桐智和(かたぎり ともかず)に電話をしたら、明後日から仕事でシンガポールにいくけど、今夜なら少し時間があるというので、急遽、ショットバーで会うことになった。
 片桐は大学卒業後、官庁に勤めていたけれど、宮使いは性に合わないと三年で退官すると、バックパッカーになって世界中をひとり旅してきた男である。一年ほど放浪の旅をして日本へ帰ってきた時には、まるで中東の傭兵みたいな逞しく不敵な面構えになっていた。
 その後、片桐は叔父が経営する『片桐探偵社』で働くことになった。
 アメリカに半年ほど探偵修行にもいっていたらしい。探偵社での主な業務は浮気調査と素行調査、たまに行方不明人を捜すことがあるという。片桐のようなアクティブな男には、探偵業が性に合っていると圭祐は思った。

 片桐に指定された店『Bar Tomorrow』は、雑居ビルの地下にあった。
 薄暗い階段を降りて、重い木の扉を押し開けたら、大人の隠れ家のようなショットバーがそこにあった。店内は間接照明で落ち着いた雰囲気が漂う、長いカウンターと後ろの棚には色とりどりの洋酒瓶が並べられていて、バーテンダーはお客の注文を訊いてからシェイカーを振ってカクテルを作る。
 あまり広くない店内を見回して片桐を探すと、カウンターの奥に座っていた。手に持ったグラスをちびりちびりと飲んでいる様子だった。黒っぽいジャンバーとよれよれのチノパンを穿いた先輩はパッと見は風采が上がらない。
 圭祐の姿を見つけて、片桐が手招きをした。
 「よお!」
「こんばんは」
 空いている隣の席に腰を下ろすと、バーテンダーにマティーニを注文した。
「おまえから電話なんて珍しいじゃないか」
「ええ、電話では詳しい事情は説明できませんでしたが、先輩に捜して欲しい人物がいるんです」
「……まさか、元婚約者か?」
「ち、違いますよ!」
「そうか。だったら良かった。あれから一年になるんだなあ」
 一年前だったら、その話題に触れられたら、圭祐は焼けた鉄にでも触ったように過剰反応していたことだろう。今はそうでもなくなってきている、鈍感になった自分が自分でも不思議なくらいである。
「この女性を探して欲しいんです」
 あの日、ビートルの車内で優衣がトートバックの中から取り出した、家族写真の中に写っていた母親の顔を写メしたものを見せた。
「ふぅ~ん。おばさんじゃん。おまえ、このいう熟女が趣味になったの」
「ひどいなあー。その人は知り合いの女の子の母親で一年前に家出して行方不明なってるんです」
 母親の名前と年齢、優衣から聞いた特徴などについて説明する、圭祐の言葉をメモに取りながら、ところどころ質問を入れる。すっかり探偵の顔になった片桐先輩である。
「旦那と喧嘩して家出したんだな? 男性関係はなさそうか?」
「それはなかったみたいです。夫婦仲が悪くて、夫が暴力を振るっていたのが原因みたいだった」
「DVかぁ~。結構多いんだよな。調理師免許を持ってるんだったけ」
「ええ、家出する前は社員食堂で働いていたようです」
「中年女性で調理師の資格があるんだったら、たぶん同じ仕事を選んでいるだろう。社員寮の賄いや学校食堂、それから老人ホームの厨房なんかが可能性として高い。その線で調査してみるか」
「さすが先輩はプロですね」
「見つけるのにそんなに時間はかからないと思うけど、俺さ、明後日からシンガポールへ一ヶ月ほど出張なんだ。それまでに片付けたい仕事もあるし……その後でも良ければ引受けるけど、急ぎなら他の業者を紹介してもいいぞ」
「いいえ、先輩にお願いしたい。早い方がいいけど、やっぱり知ってる人の方が安心できるから……」
「分かった。俺に任せなさぁ~い」
 優衣の母親の写真を写メで先輩のスマホに送った。――これには商談成立である。

「ところで……おまえ、もう大丈夫なのか?」
 氷で薄まったハイボールを飲みほすと、おもむろに訊いてきた。
 一年前、片桐先輩にも結婚式の招待状を送っていた、その後、破談になったためお断りとお詫びの手紙を送った人たち、その一人であった。
「もう過去は振り向かない。そう誓った」
「そっか。圭祐、おまえは強くなったな」
「そうでもないさ。かなり苦しんだよ。やっと最近ふっ切れてきたんだ」
「俺はおまえがまだメソメソしてんじゃないかと心配してた」
 破談直後は人々の好奇の目にさらされていた。
 いろんな人が同情やら慰めの言葉を圭祐にいってきたが、そっとして欲しかったので、誰ひとりの言葉にも耳をかさなかった。――ただ、頑なに自分の殻に籠っていた。
 そんな中、片桐からメールが届いた。『ドンマイ!』たったそれだけの言葉だったが、かえって嬉しかった。ぶっきら棒だが、昔から片桐は後輩思いの優しい先輩だった。
「彼女と僕は縁がなかったんだ。お互いに結婚相手として相応しいと思って選んだけれど、運命がリンクしてなかった」
 世間並みならいいと安易に決めた結婚だった。相手の気持ちを深く理解しようとする努力が足りなかった、それゆえ破談になったのだろう。
「まあ、結婚してからトラブル起こすより、結婚する前に見切った方が利口かもしれん。この仕事やってると男女の修羅場を度々見せられるからな……」
「彼女が今幸せなら、それでいいんだ。恨みごとなんかいいたくない」
「それでこそ男だ!」
 パシッと片桐が背中を叩いた。手に持ったマティーニを口に含み、アルコールに少し力を借りる。
「僕は今……本当に守ってあげたいと思える相手に巡り合ったから」
「そうか、おまえの表情が明るくなってたから、これは何かあると思った」
「えっ? そんなことが分かるんですか?」
「そりゃあ、探偵だから勘が鋭くなくっちゃ~この仕事は勤まらないさ」
 片桐が叔父の探偵社を手伝うようになって、調査員が五人も増えたらしい。企業の業績や裏金、政治家や暴力団関係など、片桐は海外まで調査にいくことあるという。
「俺はおまえが元気そうで安心した」
 ちらっとロレックスの時計を見て、
「悪い。今夜はおまえと飲みたかったけど、そうもいかない。今から浮気の張り込みがあるんだ」
 酒豪で鳴らした片桐がハイボールをちびりちびり飲んでいるのはオカシイと思っていたら、まだ仕事が残っていたのか。忙しいのに、わざわざ時間を割いてくれた先輩の優しさに圭祐は感謝した。
「ああ、それから……さっきのDV旦那の件だがな、もし他に家族が同居してるなら、その人が暴力の犠牲になってなきゃいいんが……じゃあ、また連絡するよ」
 そういい置いて、片桐は足早にショットバーから出ていった。

 暴力の犠牲? 片桐が最後にいった、あの言葉が気にかかる。
 父親の話をする時、いつも優衣の目が脅えたような色になる。常に父親の影にビクビクしている様子だった――。
 ビートルの中で見せて貰った家族写真には父親が写っていない。四、五年前に撮影したものだろうか、今より明るい表情の中学生の優衣と利口そうな顔つきの高校生、たぶんこの人が亡くなった兄か、それと母親と三人で写っていた。寂しい時には、いつもこの写真を眺めるんだといっていた。
 出来るだけ早く、優衣の悲しみを取り除いてやりたかった。マティーニをもう一杯だけ飲んでから帰ろうと圭祐は思った。



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   創作小説・詩

by utakatarennka | 2017-04-25 10:39 | 恋愛小説
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   第九章 あっちの空とこっちの空

     【 ひこうき雲 】

   青い画用紙に
   白いクレヨンで
   一本線をひいた

   あっちの空とこっちの空
   きみの空とわたしの空

   ふたつにわられたお空が
   さみしくて呼びあった

   おーい おーい

   あっちの空はくもってる
   こっちの空は雨になりそうだ

   そしたら風がふいてきて
   白いクレヨン消しちゃった

   ひこうき雲もふきとんで
   ふたつのお空はなかなおり
   よかったね 青い空

          優衣


「あっちの空とこっちの空」そう書いた優衣の詩は、どこかふたりの距離を感じさせる。優衣のいる空のことは何もしらない。――だけど、あの子が幸せじゃない境遇だということは何となく分かっている。
 優衣の瞳がいつも遠い過去を見つめているのは、きっと、今が幸せではないからなんだと思う。いつの日か、優衣が現在を見つめて生きていけるように、何が出来るのか圭祐は自分なりに考えてみようと思っていた。

 伝えたいことがあるので、優衣の配達の時間を待っていた。
 ポストに新聞が挿し込まれた音がしたので、慌ててドアを開けて様子を見た。
「優衣ー!」
 圭祐の呼び声に振り返ったその姿は、ブルーフォックスのイヤーマフを付けて、髪は水色のシュシュで束ねられていた。
「おはようございます」
「あ、プレゼント身に付けてくれているんだね」
「はい……」

 「優衣に良く似合ってる!」
 圭祐のその言葉に、はにかんで頬を赤らめる。
 すっきりと髪をまとめ毛皮のイヤーマフを付けた彼女は予想以上にチャーミングだった。この娘も少しだけ身なりに気を配れば、容貌は決して悪くないのに……と圭祐は思った。
「今度、どこかへ出かけないか?」
「えっ」
「日曜日は用事とかある?」
「ううん。何も……家に居るだけ……」
「そっか。だったら今度の日曜日にドライブにいこう」
「ドライブ?」
「そう、僕の車で少し遠出をしよう。山と海どっちがいい?」
「……海。寒いけど、冬の海を見てみたい」
「よし分かった。日曜日、九時に駅前のロータリー交差点の所で待っているから、いいかい?」
「うん」
 嬉しそうに優衣が頷いた。その表情に満足そうに圭祐も頷いた。
 そして「配達ご苦労さま!」と声をかけ、ポケットで温めておいた缶コーヒーを優衣に手渡した。
 太い新聞の束を手に、次第に遠ざかる優衣の姿が見えなくなるまで見送ってから、圭祐は自分の部屋に戻った。

 駅前のロータリー交差点の中央には、小島のような大きな花壇があり、四季折々の花が咲いている。今は冬なので三色すみれが黄色や紫、白と鮮やかな色彩でいろどられている。花壇の真ん中には、金属で作られたモニュメントが設置されて時計塔の役目を担っている。
 いわゆる、ラウンドアバウトと呼ばれる方式で、中心の小島のような花壇の周りを既走車両を優先し周回するシステムで、ロータリー交差点の利点を生かしつつ、欠点を改良したものなのである。
 目立ちやすいモニュメントの近くに、愛車のシルバーグレーのフォルクスワーゲンを停めて、優衣がくるのを圭祐は待っていた。
 モニュメントの時計が九時を指す五分前に、きょろきょろしながら優衣が駅前を歩いてくる。初めて会った時にも着ていた黒っぽいジャケットとイヤーマフを付け、オタクっぽい布のトートーバッグを手に提げていた。
 先に気がついた圭祐が車を移動させて、優衣の方へと近づいていって、車のウィンドウを開けて「優衣」と声をかける。
 きれいな外車が傍らに停まったので優衣は面食らっていた。
「おはよう。これが僕の車だよ」
 圭祐は車から降りて、優衣のために助手席のドアを開けた。それはニュービートルという、丸いフォルムのアンティークなデザインのドイツ車で、右ハンドルである。
「素敵な車ですね。こんなの初めて乗った……」
 日頃、父の軽貨物の助手席にしか乗ったことのない優衣は、ひどく緊張しながら乗り込んだ。
「ビートルは古い車だけど、これは新型のビートルなんだ」
 優衣が助手席に座ると、シートベルトをするように促して、圭祐も車に乗り込んだ。
「外車って、すごい……」
 車内を見まわして優衣が呟いた。
 この車をテレビや写真などで見たことあったが、まさか実際に自分が乗れるなんて考えてもみなかった。
「さーてと、お姫さま。今日は海までお連れしましょう」
「やだ、あはは……」
 圭祐がおどけていうと優衣は嬉しそうに笑った。
 ステアリングホイール脇に設けられた一輪挿しには小さな鈴蘭が活けてある。鈴蘭の花言葉は『幸福が訪れる』優衣への想いを込めて、圭祐が選んだ花である。――爽やかな鈴蘭の香りが仄かに漂ってくる。

「飲みものあるから、どうぞ」
「ありがとう」
 ドリンクスタンドには缶コーヒーが挿してある。ふたりっきりで車に乗り込んだら、引っ込み思案の優衣は緊張して無口になってしまった。カーステレオから軽いJポップを流す。なんだかお互い話の糸口が見つからない。
「――詩はいつから書いてるの?」
 優衣が貝になってしまわないように、さりげなく圭祐から質問をする。
「えっと……小学生の高学年くらいから……きれいな詩を書くと、お兄ちゃんや友だちが褒めてくれるから……」
「そうか、自分のために詩は書かないのかな?」
「……自分のために書いた詩は真っ暗で、誰にも読ませられない」
「暗い詩でも、それが優衣の心を映した言葉なら読んでみたいな」
「あのう。本当に読んでみたいですか?」
 そういうと、優衣は膝の上に置いたトートーバッグに目を落とした。そこには二冊の詩のルーズリーフが入っている。
 優衣は躊躇しながらも、その一冊を圭祐に渡した。


     【 石ころ 】

   泣き出したいほど辛いとき
   心のスイッチをOFFにする
   何も見えない 何も聞こえない 何も感じない
   そうすれば悲しくても
    顔は笑っていられる

   すべてをシャットアウトして
    自分の殻の中へ逃げ込む
   弱いわたし 不器用なわたし 意固地なわたし
   心が傷つかないように
    そうやって自分を守ってきた

   アルマジロのように固まって
   壊れそうな自分を隠しているの
   触れられないように
   石ころみたいに転がりながら
   それでも守りたい 小さなプライド


 優衣自身の詩は、現実逃避と自己憐憫、そして自虐的な詩ばかりだった。
 そこには、生きることへの希望も喜びもなく、絶望感と悲しみだけが漂う。まだ、大人にもなっていない彼女が、なぜ、人生をそこまで悲観するのか、その理由を圭祐は知りたいと思った。

 ドライブ途中の『道の駅』でふたりは休憩をとることにした。
『道の駅』の中にはレストランやコーヒーショップ、お土産物屋があった。その中に洒落た洋菓子店が見つかったので、優衣におやつを選ばせた。彼女は「これ前から食べてみたかったの!」とガラスケースに陳列された、カラフルな色どりのマカロンを見て喜んだ。
 ドライブ中に食べるマカロンを三つほど選んで、後は詰め合わせにして、お土産に持たせた。
 再び、ビートルに乗リ込むと真っ直ぐ海に向かって走らせる。
 優衣は久しぶりのドライブらしく、車の窓から流れる風景を楽しんでいた。まだ若いのだから、もっと外へ出て、いろんなことを楽しんだら良いのに……だが、それが許されない事情が優衣にはあるようだ。
 やがて、ビートルは海に沿って伸びている湾岸道路を走り始めた。白い砂浜と冬の荒い海。雪も少しちらついて外はかなり寒そうだった。どこかに停車できる場所はないかと探しながら運転していたら、しばらく走ると『海の公園』と書かれた標識が見えた。そこのパーキングに車を停めて、ふたりは車窓から海を眺めていたが、優衣が「海岸にいってみたい」といい出した。
 
「海岸は、かなり風が強いし寒いよ。大丈夫?」
「うん。海好きだけど……あんまりいったことなくて、波打ち際までいって見てみたい」
 優衣が着ている黒いジャケットは、だいぶ着古しているようで生地が薄くなっている。この娘はおしゃれに興味がないというよりも……着る物をあまり持っていないのかもしれないと、圭祐はそう思った。
「そっか。優衣は詩人だから綺麗な風景を心のアルバムに取っておきたいんだね」
「――そうかもしれない」
「あ、そうだ。後部座席に僕のウインドブレイカーが積んであるから、それを羽織ったら少しは寒さが凌げると思うよ」

 圭祐の紺色のウインドブレイカーを羽織った優衣と海岸の方へ降りていく。海からは容赦なく激しい風が吹き荒む。おまけにみぞれ交じりの冷たい雪まで降ってきた。ふたりは向い風に押し戻されそうになりながらも、海へ海へと歩いていく……。
 ――その姿は、まるで『心中の道行』みたいだと、圭祐は心の中で自虐的に嗤った。

 海岸の波打ち際に立って、ふたりは海を眺めていた。
 夏なら海水浴で賑わう砂浜も、今の季節は海からの漂流物や海藻などで薄汚れている。沖の方では、カモメたちが強い風に吹き飛ばされそうになりながら海面すれすれを飛んでいく。遠く水平線は鉛色の空を映している。――冬の海は、蒼く冷たく心まで凍えそうだ。
「そろそろ車に戻ろうか?」
 じっと海を見ている優衣に焦れて、圭祐が声を掛けた。
「あたしが小学生の頃、夏になるといつも家族で海水浴にきたんだよ」
「海水浴かあ、子どもの頃には僕もよくいった」
「いつも海が怖くて、なかなか入れないあたしを、お兄ちゃんが手を繋いで一緒に入ってくれたんだ」
「優しいお兄さんだね」
「うん。なのに……優衣をひとり置いて、お兄ちゃん天国に逝っちゃった」
 冷たい風にあてられた優衣の頬はリンゴのように真っ赤になっている。血色が良くみえるが、このままでは風邪を引きそうだ。圭祐は用意して来た言葉を優衣に言おうと決めた。
「優衣、僕とひとつだけ約束して欲しいことがあるんだ」
「……なぁに?」
「どんなに辛いことがあっても、ひとりで苦しんで……手首を切ったりしないでくれ! 苦しい時には、この僕を頼ってきて欲しいんだ」
「――ありがとう。あたし、今まで相談できる人がいなかったから……」
「優衣、今の願いは何?」
 そう訊くと、しばらく考えていたがぼそりといった。
「お母さんに会いたい」
「そうか」
 優衣の母親は一年前に家出している。
「死んだお兄ちゃんとは、二度と会えないけど……生きているお母さんとは会いたい……早く会いたいよう……」
「そうか」
「お母さんは、あたしを置いて出ていった、ずっと寂しかった……」
 優衣が嗚咽を漏らす。
「分かった! 絶対に探し出してあげるから。お母さんの名前と歳は?」
「辻本綾子、四十七歳……」
「きっと、お母さんと逢えるからね。大丈夫だよ」
 泣いている優衣を圭祐は優しく抱き寄せた。《震える小鳥を胸に抱く……》この娘は絶対に自分が守ってやると、圭祐はそう心に誓った。
 強風に立ち向かうように肩を寄せ合って、ふたり波打ち際に立っていた――。

 海岸からの帰り道。食事をしようと優衣を誘ったが……「夕食の時間に間に合わないと、お父さんに叱られるから……」と車内でサンドイッチを食べた。駅前に着いて、車を降りると慌てて自転車で帰っていった。
 母親が家出した後、どうやら優衣と父親は上手くいっていないようだと圭祐は感じた。



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   創作小説・詩

by utakatarennka | 2017-04-24 21:10 | 恋愛小説
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   第八章 ひとりで頑張らない

 涼子は『吉田家の事件』で、警察から事情聴取を受けたが、ショックであまり詳細には覚えていなかった。その代わり崎山が警察にいろいろ説明してくれたみたいである。事件の日は警察署から職場に戻ったが、動揺していて仕事が手に着かず早退して家に帰った。
 その晩、急な発熱で涼子はダウンしてしまった。どうやら風邪を引いたみたいで喉が痛く、身体が熱っぽい。だるくて何もする気になれなくて……今日で三日目、涼子は職場を休んでいる。市販の風邪薬を服用しているが、病院でちゃんと治療を受ければ、すぐに治るような風邪だと分かっているが、病院にもいかず家で寝ていた。何となく、今は病気の自分に甘えていたい気分なのだ――。

『介護』の仕事を始めて一年……涼子はこの仕事にやり甲斐を感じて、自分の天職だとさえ思っていた。
 いつも、きちんと職務を果していると自負していた。――それなのに、先日の『吉田家の事件』で、涼子は何も出来なかった。木偶の坊みたいに突っ立ったまま、ただ見ていただけの自分が情けない、しかもパニックを起こして泣き出してしまった。

 かつて、涼子が『介護』の仕事をすると決めた時に多くの人を傷つけた。
 婚約者には挙式一ヶ月前に婚約破棄して、ふたりの家から飛び出した。自分の両親に結婚をしないと告げた時、母親に「どうか、式だけでも挙げておくれ」と懇願された。親戚や友人、近所の人にもご祝儀やお祝いの言葉を貰っている手前、結婚が破談になったなんて世間体が悪くて、恥ずかしくて、もう外にも出られないと泣かれた。父親は愚痴ぐちとはいわなかったが「おまえの婚約者とご両親に申し訳ない……」と肩を落としていた。
 その後、涼子の両親は婚約者の実家に謝罪にいったが、会っては貰えなかったそうだ。相手の両親とすれば、大事な息子の将来に泥を塗ったと激怒していることだろう。どんなに責められても仕方ないことだと、涼子にも分かっている。
 それなのに……そこまで犠牲を払って、選んだ『介護』の道だったのに……自分は無能者だった。そのことを思い知らされて、ショックのあまり涼子は働く気力を失い、そのせいか、風邪まで引き込んでしまった。

 寝込んで三日目、ようやく涼子はベッドから起き上がったが……頭がフラフラする。この三日間、水以外ほとんど何も口にしていなかったことに気がついた。ずっと眠っていたようだ、途中、何度か携帯の呼び出し音が鳴ったが、無視して、さらに眠り続けた。
 今の体調は風邪だけではなく……少し鬱になりかけているのかなぁーとも思う。
 取りあえず、何か食べなくてはと立ち上がってキッチンまでいき、お湯を沸かして、インスタントのカップスープを作って飲んだ。バターロールとヨーグルトも少し食べたら、ちょっとだけ元気が出た。

 風邪は回復してきたが涼子の心は重かった。こんな自分が『介護』の仕事を続けていても迷惑にならないだろうか。太田サヨのことも、自分が会いにいってあげなかったので……寂しくて、自殺したのかも知れないのだ。
 結局、誰ひとりとして救えないし、何の役にも立ってはいないのだ。自己嫌悪で涼子は自分ばかりを責めていた。
 明日には出社しなければいけないと思うのだが、どうにも気が重くて……《仕事どうしよう? このまま辞めちゃおうかなぁー》そんなことをぼんやりと考えていたら、いきなり玄関のチャイムが鳴った。
 パジャマ姿だし、病み上がりでやつれて元気もないし、人と会うのは億劫だったので『居留守』を決め込もうとチャイムを無視していたら、今度は玄関のドアをドンドンと激しく叩き始めた。
 もう! うるさいわね。いったい誰なのよ? ムッとして立ち上がり、こっそり玄関の覗き穴から見たら、でかい図体の崎山が立っていた。

 涼子が玄関のドアを開けると、元気な崎山が飛び込んできた。
「ほい、お見舞い!」
 いきなり、目の前にフライドチキンが入ったバケツみたいな箱を突き付けられた。
「あれれ、涼子さん。すっかりやつれちゃって……」
「うん……」
「俺、心配で様子を見にきたんですよ。ご飯食べてなかったでしょう?」
「ありがとう。熱があって、食欲がなかったから……」
 あんまり、しつこくドアを叩くので……仕方なくパジャマの上からカーディガンを羽織って玄関を開けたら、やたら元気でハイテンションな崎山に、頭がクラッとして、開けるんじゃなかったと、深く後悔している涼子であった。
「ダメじゃないですか。これ一緒に食べましょう!」
 チキン10ピース入りのバケツを目の前でブラブラさせながら、崎山がいう。
「お見舞いって……ホントは自分が食べたくて買ってきたんでしょう?」
「あれ、バレたかあー!」
 まるで悪戯っ子みたいに、えへへと崎山が屈託なく笑う。
「もう、とにかく中に入ってよ。どうぞ」

 涼子の部屋はワンルームなので、小さなキッチンと奥に十畳ほどの洋間があるだけだ。当然、寝室兼居間なので、ベッドのある部屋に男性を通すのは憚れるが……崎山だと、あまり異性を感じられないし、涼子は内心、この男は、性欲よりも絶対に食欲の方が勝っているのに違いないと思っていたから、善しとしたのである。
 寝乱れたベッドを見られるのは、ちょっと恥ずかしいが……病人だから仕方がない。冷蔵庫に発熱用に買って置いたスポーツドリンクがあったので、ペットボトルごと崎山に渡すと、もう、すでにバケツを開けて、チキンにかぶり付いていた。
「いやー、うまい、うまい!」
 あっという間に5ピース食べてしまった。
「フー。いつ食べてもフライドチキンはうまいなあー」 やっと、人心地ついたのか。今度は五百リットルのスポーツドリンクを一気飲みした。豪快な男である。あきれ顔で見ている涼子に気がついて崎山が……。
「どうしたの? 食べてないじゃないですか?」
「崎山くんの食べる姿を見ているだけで、お腹がいっぱいになったわ」
「体力つけないと風邪治りませんよ」
「でもね……。病み上がりの人のお見舞いにチキンはおかしいでしょう?」
「えっ! そうですか? 俺は熱があっても焼き肉いけますけど……」
「それは崎山くんだけ!」
「えへへ」
 何を言われても気にする風もなく、飄々とマイペースな崎山。ほんとうは、こんなタイプの人間が『介護』には向いているのかもしれない、涼子はそう思った。
 自分のペースを崩さない……実は人間相手の仕事ではそれが一番難しいのだ。

 その後、さらにチキンを3ピース食べた崎山は満足したみたいで、ニコニコしていた。この男はまったく何しにきたのよ? と思いながらも、どこか憎めない存在なのである。
 婚約者だった人は神経質で繊細なタイプだったが、崎山は無神経で大雑把、こちらも気を使わなくて済む分だけ疲れないタイプである。
「あのさー」
「うん?」
 ちょっと、神妙な顔で崎山が何かいいかけてきた。
「こないだの吉田さんの件……涼子さんにはショックだったよね? あの時、涼子さんが車の中で泣いてたんで……俺、ビックリしたんだ」
「……まさか、泣くと思わなかったでしょう?」
「うん。何て言うかぁー、その……やっぱし女の人だなぁーって思った」
「不甲斐ない奴だと幻滅したよね?」
「いいや。俺……泣いてる涼子さん見て、キュンときた!」
「えっ?」
「可愛いなぁーって、抱きしめたくなった!」
「ぶっ! ま、まさか」
 涼子は噴いてしまったが、崎山の顔が赤くなっていた。
「――わたし、あの時……何も出来ずに突っ立っていただけで介護者として失格だったわ」
「涼子さんは真面目過ぎるから、ああいう場面に直面するとパニックになっちゃうんだ。俺はラグビーやってたし、少々の流血くらいどうってことないからさ」
「自信失くした。自分の職務を果たせないなら辞めた方がいいのかなぁーって……今は思ってる」
「はあ? 何いってるの? 職務とかそんな言い方は傲慢でしょう?」
 急に崎山が厳しい顔で切り返した。涼子は驚いて、黙って、次の言葉を待った。
「俺、そんな風に上から目線で仕事を語る人は好きじゃない。職務とか、そんな義務感で行動する前に、人間としてどうするべきか。――それが先決でしょう?」
 確かに、あの時の崎山の行動は冷静沈着で適切だった。
 何からすべきか心得ていたように思える。それは職務ではなく、人間として取った行動の結果なのだろうか。崎山という男の一見、大雑把でいい加減そうな人柄の裏に隠された。男らしい行動力には、涼子も少し魅かれ始めていた。

「なぁーんちゃってね! 偉そうにいってゴメン!」
 崎山はテレ隠しに頭を掻いた。
「……ううん。たしかに崎山くんのいう通りかもしれない。わたし、思い上がっていたのかもしれない」
「何もかも、ひとりで頑張らない」
「うん」
「仲間がいるんだから、自分の手に余ることは頼んだらいいんだよ」
「そうね」
「ひとりの十歩より、みんなの一歩だから……」
「崎山くん、良いこというね」
「こないだ、立読みした本に書いてあった」
「あははは」
 崎山としゃべっていると涼子の憂鬱な気分が少しずつ晴れてゆく――。
「ところで、崎山くん。仕事はもう終わったの?」
「あっ! しまった。 もう一軒、利用者の家に迎えにいかなきゃあー」
「ええー! チキン食べてる場合じゃないでしょう!」
「やばい、やばい!」
 そう言いながら、崎山は慌てて涼子の部屋から飛び出していった。真面目なのか不真面目なのかよく判らない。しかし、なんだか癒される不思議な男だ。

 涼子は三日間休んで、四日振りにデイサービス『ゆーとぴあ』に復帰した。
『吉田家の事件』の後だったので、みんなが気を使って心配してくれていたのがよく分かる。実際、風邪だったのだが、それ以外の要因で体調が悪くなったのもたしかである。崎山と話してから、ふっきれたみたいで少し心が軽くなったように思える。
 午前中はお年寄りの入浴の介助などをやっていたが、やっぱし身体が本調子ではないのでかなり疲れた。お昼の休憩時間、隣接する病院の中庭で本でも読もうかとベンチを探していたら、そこには先客がいた。涼子の気配に気づいて相手も振り向いた。
 先客は綾子さんと呼ばれている、調理室で働く四十代後半の女性だった。
 涼子とほぼ同じ時期に『ゆーとぴあ』に勤めた始めた人だが、調理師免許を持っているので、厨房での仕事をかなり任されているらしい。崎山は、この綾子にオムライスやチャーハンをよく作って貰っている。
 職場の噂では、綾子はテキパキと仕事はよく出来る人だが、あまり職場の仲間たちとは付き合いがなく、どことなく陰のある人で、アパートにひとりで暮らしているらしい。
「どこもかしこも禁煙でさぁー。携帯灰皿持って、ここで吸うしかないんだよ」
「そうですね……」
 綾子は煙草を指に挟んで旨そうに吸っている。煙草を吸わない涼子には返答のしようもない。
「あんた、もう大丈夫なのかい?」
「えっ? はい、風邪は治りました」
「崎ちゃんがねぇー、すごーく心配してたんだよ」
「そ、そうですか?」
 崎山と綾子は親しい仲である。
「あんたが休んでる時さぁー、崎ちゃん元気なくて……あたしが作った『特製オムライス』残したんだよ。それで事情を訊いたら、涼子さんが今日で三日も休んでて、俺、心配で仕方ないって言うから、だったら、お見舞いに行きなさいよ。ってハッパをかけたんだよ」
「へぇー、そうなんですか?」
 自分のいない所で、自分が話題になっているのを聞くのは面映ゆい。あの日、崎山が涼子の家にお見舞いにきたのは、どうやら綾子のハッパのお陰のようだ――。

「崎ちゃん、いい奴だよ。あんたどう思う?」
「えっ! そんなこと急に言われても……」
いきなり、綾子が崎山のことを打診するようなことをいってきたが、涼子としては答えようがない。
「まっ、付き合ってみないと分からないだろうし……」
 綾子は煙草を咥え、眉間にシワを寄せて何か考えている様子だ。
「そうだ! 今度、三人で飲みにいこうよ」v「えぇー!」
「いいじゃないの、三人で飲み会しよう。あんたは飲めるんだろう?」
「まあ、少しは……」
「崎ちゃんは図体の割にお酒弱いんだよ」
「あ、そうなんですか?」
「あいつは食べるの専門でさぁー。コップ一杯のビールで顔が真っ赤っかかなんだ。マントヒヒみたいになってさ」
 そういった綾子が、うぷぷっと笑った。
「じゃあ決めたよ。日にちは後で連絡するから、よ・ろ・し・く」
 一方的に綾子が涼子にいい置いて、携帯灰皿で煙草を揉み消すと、さっさっといってしまった。あっけに取られて、返答もしないままに『三人飲み会』の件を承諾した形になってしまった。
 たぶん、綾子は崎山と涼子をくっつけようと目論んでいるのだろうが……涼子には、そんな気持ちは毛頭ないし、自分には婚約破棄で多くの人を傷つけた過去があるので、どんなに良い人が現れても絶対に好きになったりはしない。
 過去に、《婚約者を傷つけた自分は結婚して幸せになる資格はない》と涼子は思っているから、一生結婚はしないと固く心に誓っていた。



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   創作小説・詩

by utakatarennka | 2017-04-24 10:08 | 恋愛小説
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   第七章 しゃぼん玉とんだ

     【 しゃぼん玉 】

   ピューと
   赤いストローから
   とびだす
   しゃぼん玉たち

   ふわふわと
   ただよいながら

   ごっつんこして
   はじけた
   木の枝にぶつかって
   はじけた
   カラスにつつかれた

   ピューと
   元気いっぱい
   とびだす
   しゃぼん玉たち

   風にだって
   負けないんだから

   あの子の家まで
   とんでけ
   学校の屋根まで
   とんでけ

   しゃぼん玉とんだ
   あたしの夢ものせてって

          優衣


 毎朝、優衣の小さな詩から『元気』を貰ったと圭祐は思っている。
 子どものような心で書かれた優衣の詩は、無邪気で素直に心に響く。だからお礼をしたい気持ちになって、優衣に何かプレゼントを考えていた。
 今日、久しぶりに雑貨屋を覗いて、女の子の喜びそうな可愛い小物を買った。こんなものを買うなんて……一年前の圭祐には考えられないことだったが、是非、これを優衣に付けて貰いたいと思ったのだ。
 優衣は自分のことをとても卑下しているが、圭祐には彼女がダイヤモンドの原石のように思えるのだ。今は悲しみで輝きが曇っているが……いつか、きっと輝く宝石になれる。
 そうなるために、優衣の力になってあげたいと圭祐は思っていた。

 早朝、圭祐はベッドに置いた携帯のアラームで目を覚ました。
 ――三時四十五分、通常、こんな早い時間に起きることはないが、朝刊を配っている優衣に会うため早起きだった。
 眠い顔を冷たい水で洗い、コーヒーメーカーをセットして、好きな音楽をかける。二杯目のコーヒーを飲んでいる最中に、ガタンと何かがドアポストに挿し込まれる音がした。優衣が朝刊を配っていったようだ。慌てて、圭祐は部屋から飛び出した。
「優衣!」
 ドアを開けて呼びかけると、驚いたように振り返った。
「お、おはようございます」
「おはよう。ねえ、配達の仕事は何時に終わる?」
「えっと……五時過ぎには終わると思います」
「そっか。じゃあ、こないだ行った駅前のハンバーガーショップで、五時過ぎに待ってるから、これる?」
「はあ? はい……」
 困ったような顔で優衣が返事をした。「優衣にプレゼントを渡したいんだ。待ってるから必ずきてくれよ」
「はい!」
 今度は嬉しそうな声での返事だった。「じゃあ、頑張れ!」圭祐の励ましの声に、再び優衣は新聞を配り始めた。
 携帯を持っていない優衣との連絡手段は直接話す、この方法しかなかったのだ。

 駅前のハンバーガーショップで優衣を待っていたら、五時半頃に彼女が走り込んできた。きょろきょろ店内を見回して圭祐を探している。カウンター近くの四人掛けのテーブルに座っていた圭祐は、軽く手を上げて優衣に合図を送ると、すぐに気が付いて彼女は息を切らせながらやってきた。
「遅くなってごめんなさい」
 謝りながら席に着いた。
「忙しいのにきてくれて、ありがとう」
「いいえ」
 優衣は恥ずかしそうに俯いて笑った。そんな彼女の表情を黒い髪が覆い隠す。
「あ、何か食べる? 朝早いからお腹空いただろう」
「うん……」
 立ち上がって、カウンターへ行こうとする優衣の肩に軽く手をのせ席に押し戻した。
「――いいから座ってなよ、僕が買ってきてあげるから」
 優衣に注文を聞いて、圭祐が代わりに買いにいく。

 ようやく優衣が食べ終わるのを待って、圭祐は持って来たプレゼントを渡した。
 若者向けの雑貨店で買ったので、ピンクのリボンで可愛らしくラッピングがされている。受け取った瞬間「わあー!」と優衣は歓喜の声を発した。「開けて見てごらん」と圭祐に促されて、ラッピングを丁重にはがしながらプレゼントを開けていく優衣。
 中から出て来たものは――。
「イヤーマフ?」
「うん。耳が冷たいだろうと思って……」
 そのイヤーマフはブルーフォックスの青みがかった白い毛皮が耳あてに付いていた。ふわふわと柔らかく、ゴム紐タイプなので軽くて、しかもドーナツ状の構造で耳が塞がらないので、ちゃんと外部の音も聴こえるようになっている。
 新聞を配達する優衣が長時間付けていても頭が痛くならないように、圭祐が考えた末に選んだプレゼントだった。
「ありがとう。だけど、こんな高価なものは……」
「優衣が気に入ったなら使って欲しいんだ。いつも詩をプレゼントして貰ってる、それに対する、ささやかなお礼だから……気にしないで」
「すごくきれいなイヤーマフで嬉しいです。この青白い毛皮の色が好き!」
「気に入って貰えて良かったぁー。あ、それと、袋の中にもう一つプレゼントが入っているはずだよ」
「えっ?」
 袋の中を探って、優衣は小さな袋を見つけた。
「これは?」
「開けてみなよ」
 薄い水色のフリルのシフォンシュシュ。
「これって、髪留めですか?」
「イヤーマフを付ける時に、長い髪をそれで束ねればいいと思ってさ」
「ええ……」
「髪の毛、すごく長いね。いつから伸ばしているんだい?」
 優衣の髪は背中から腰近くまである。それを束ねないで無造作に伸ばしているので、顔が隠れて陰気な感じがする。
「三年前くらい……お兄ちゃんが死んでから、ずっと髪を切っていない」
「どうして?」
「お兄ちゃんが撫でてくれた、この髪を切り落としたくないから……」
「そっか……」
 優衣の心の中で『兄の存在』を、少しでも形として留めて置きたいと思っているのだろうか。……その健気さが不憫だと圭祐は思う。
「だけど、視界が悪いから髪は束ねた方がいいよ」
「……でも、あたし不細工だから顔も髪の毛で隠したい」
「そんなことない! 優衣は顔も心もきれいだよ」
 圭祐の発したその言葉に驚いたように目を見張った優衣だが、その後、俯いて沈黙してしまった。――たぶん、からかっていると思ったのだろう。

「あっ! もう帰らないとお父さんに叱られる」
 急に慌てて、優衣が立ち上がった。
「ごめんよ。引き留めて……」
「今日はありがとうございました」
 ぺこりと頭を下げて、来た時と同じようにバタバタと小走りで去っていく。
 余程、父親が怖いのだろうか。どうも複雑な家庭の事情がありそうだと圭祐は感じていた。

 優衣が家の鍵を開けて、中に入ると父の義男が玄関に立っていた。
「遅い! なにやってたんだ!」
 いきなり大声で怒鳴られた。
「ご、ごめんなさい……新聞が一部余って、それで入れ忘れた家を探してたから……」
 咄嗟に嘘を付いた。朝から男の人と喋っていたなんてバレたら……父に殴られる。圭祐から貰ったプレゼントは、いつも持ち歩いている布のトートーバックの中に隠しておいた。
「この愚図が! さっさと朝飯の支度をしろ」
「は、はい」
 慌てて、優衣は台所へと走っていく。
「新聞配達なんか、いつまでやってるつもりだ! もっと金になる仕事を探せ。駅前のキャバクラで募集してたぞ、おまえは来月で十九だから、もう働けるだろう?」
 優衣の背中に義男の言葉が続く。――キャバクラなんかで働くくらいなら、死んだ方がマシだと優衣は強く思った。
 今、アルバイトで稼いでいるお金は全て父に渡している。
 その中から五千円だけ小遣いとして優衣は貰っているが、自分の衣類、日用品、お菓子などをそれで買っている。そして、父からは十日に一万円だけ渡されて、それで二人分の食費を賄っている。お金に細かい父にはレシートや明細をきちんと見せなければならない。しかし、それっぽっちのお金では誤魔化しようもない。カツカツの生活である。
 腰痛持ちの父は軽貨物の仕事が減って、最近では家でブラブラしている日も多い、さらに、働いていた母親が家出したので、現金収入が減ってしまった。義男は何んとか優衣を働かせて収入を得ようと考えているようだ。
 辻本家では長男健人を喪って、そこから全ての歯車が狂い始めていた。



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   創作小説・詩

by utakatarennka | 2017-04-23 12:23 | 恋愛小説
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   第六章 心だけでは支えられないこと

 涼子の働いているデイサービスの施設は大きな病院が経営している。
 認知症や身体の不自由な高齢者を昼間の時間だけ預かって、介護する家族の精神的、肉体的な負担を軽減するための施設である。利用者は週に何日か曜日を決めて利用している。
 ここでは食事、入浴、アクティビティ、送迎バスなどのサービスなどが、介護保険適用であれば要介護度別の一割負担で利用が可能なのである。
 高齢化社会でのニーズが大きく、涼子の勤務するデイサービスの『ゆーとぴあ』では百名以上の利用者が登録されている。

「涼子さーん!」
 後ろから大声で呼ばれ、振り向くと介護福祉士の崎山貴志(さきやま たかし)がニコニコしながら手を振っていた。
 崎山は涼子より三歳年下の二十五歳の青年である。介護の仕事が好きで大学卒業後、二年間、福祉の専門学校に通って介護福祉士の国家資格を習得しているが、大型免許を持っているためか『ゆーとぴあ』では、主に利用者たちの送迎バスの運転手をさせられている。学生時代にはラグビーをやっていたという崎山は、体育会系のがっしりした体躯で、いつも元気いっぱい声も大きい。
「なぁに?」
 涼子が素っ気ない返事をしても、崎山は嬉しそうに、
「今日ね。涼子さんとデートなんだ! バスの送迎シフトが一緒で、俺うれしかったぁー」
「なにいってんの? これは仕事でしょう」
 少し苦笑しながら、崎山にいい返した。
 崎山は気にする風もなく、ニコニコしている。この男は頭の中も体育会系なのか陽気で単細胞。しかしながら『ゆーとぴあ』の老人たちには、とても人気があって、見るからに『頼れるお兄さん』といった感じなのだ。
 涼子と崎山は一年前、ほぼ同時期に『ゆーとぴあ』に就職した。なんだかんだ言っても、ふたりは同期なので親しい間柄である。
「でもさ。利用者が乗ってくるまではふたりきりでしょう? だからデート!」
「もう、真面目にやってください!」
 ムッとした顔で涼子が崎山を叱る。

 そこへ施設の調理室で働くパートのおばさんがやってきて、崎山に伝言をつたえた。
「崎山さん、調理室の綾子さんが『特製オムライス』出来たから、食べにおいでっていってますよぉー」
「わーい! オムライス食べる、食べる!」
 崎山は送迎バスを運転する前に、腹ごしらえするつもりのようだ。
 この男、身体も大きいのでとにかくよく食べる。調理室のおばさんたちとも仲良し、よく内緒で食事を作って食べさせて貰っているみたいだ。
「涼子さん、待っててね。俺、オムライス食べてくるからー」
 そう言い置いて、崎山は慌てて調理室のほうへ小走りでいく。
「もうー、遅れないでよ!」
 食べ物には目のない、子どもみたいな崎山の後ろ姿に、涼子は思わず笑みが零れた。

『特製オムライス』を食べてきた崎山は、送迎車出発時間ぎりぎりセーフで走ってきた。「お口にケチャップが付いてるわよ」涼子に注意されて「えへへ」手の甲で拭う崎山に、《こんな勤務態度で大丈夫かしら?》ちょっと怒りモードの涼子であった。 今日の利用者の送迎はバスではなく、大型のワゴン車だった。車椅子で乗れるリフトも付いている。鼻歌まじりにご機嫌で車のハンドルを握る崎山の隣、助手席に涼子は座った。
 崎山はハンサムとは言えないが、目鼻のキリリとした男らしい顔立ちである。いかにもスポーツマンという感じで髪も短く刈っていて、おしゃれではないが清潔感がある。服装はスポーティタイプのものが多く。ラグビーをやっていただけに身長は180cm以上、体重も80キロは下らない。実に立派な体躯をしている。
 涼子には不思議だった。こんな若くて元気な青年が、なぜ選りに選って『介護』という地味で重労働なのに、その割には報われない低賃金の職場を選んだのだろうかと……。
「ねえ、崎山くんって、どうして介護の仕事を選んだの?」
「はあ、俺ですか? 小さい時からおばあちゃんっ子で年寄りが大好きなんですよ」
「おばあちゃんっ子なの?」
 その返答にププッと思わず涼子は噴いた。
 こんなおっきい男が、自称おばあちゃんっ子なんて……なんだか滑稽だった。
「俺、父親が早くに亡くなっちゃって、母親の実家で育てられたんですよ。母親は会社で働いていたんで、いっつもお祖母さんに甘えてたから。年寄りの話とか聴くのが好きだったし、年寄りって可愛いですよねぇー」
「へえ、そうだったの」
「それが……お祖父さんもお祖母さんも高齢になって介護が必要になったんですよ。うちの母親がひとりで両親の介護をやってたんですが……ものすごく大変で、俺も手伝っていたけど、やっぱし大変だった……」
 当時を思い出してか、崎山の表情が曇ってきた。
「……それでも、なんとか両親を見送った母親は介護疲れか、半年後にふたりを追うようにして亡くなって……俺、ひとりが残された。――大学四年生で就職も決まっていたけど……その時、思ったんですよ。『介護』には、もっと男の力が必要ではないかと、女性にだけ任せるには、あまりに負担が大き過ぎるのではないかと……それで、就職先を断ってアルバイトしながら介護の専門学校に通ったんです」
「立派だね! 崎山くん見なおしたよ」
 涼子は崎山の話を聞いて、彼が生半可な気持ちで『介護』の仕事を選んだのではないことを知って、すごく感動した。
「えへへ」
 と、照れ臭そうに崎山が笑った。どこか少年みたいで可愛いと涼子は思った。

 そうこうしている内に、今日のデイサービス利用者、吉田家の前に着いた。
 家は古い平屋の木造住宅である。利用者は七十五歳のおばあさんだが、認知症がかなり進んでいて、物忘れや徘徊、そして時々暴れたりするので、介護をしている夫のおじいさんは大変である。
 最近になって、デイサービスを利用し始めたが、子どものいない夫婦だったので、それまではおじいさんがひとりで介護をしていたようだ。
 迎えに行っても、おばあさんの機嫌の悪い時は暴れたりして、車に乗せられないことも度々あった。
 介護疲れで憔悴し切っている、おじいさんの方がむしろ心配なくらいだった。

「おはようございます。吉田さーん」
 チャイムを鳴らしたが返事がない。玄関ドアが少し開いていたので、「吉田さん、デイサービスです」涼子は中へ声をかけた。しばらく様子を窺っていたが……人の気配はするが返答がない。高齢者ということもあって、心配になり涼子は家の中に上がってみることにした。
「吉田さん、どうかしましたか? 入りますよ」
 玄関で靴を脱いで上がり、居間のガラス戸を開けて涼子が見たものは――。

 居間の畳の上、血まみれのおばあさんがうつ伏せで倒れていた。頭から大量の血を流して……。壁にもたれたおじいさんは、血の付いた杖を握りしめて、茫然自失の状態だった。
 見た瞬間、涼子はヒィーと呻いて後ずさりしながら……悲鳴を上げた。慌てて外に飛び出し崎山に助けを求めた。血相変えて、裸足で飛び出て来た涼子の様子に、崎山はただならぬ事態を感じ取って、すぐさま車から降りてきた。

 ――部屋に入った崎山は、まず状況を把握して、倒れているおばあさんの脈を取って、すぐに救急車の出動要請をした。その後、壁にもたれていた、おじいさんの手から血の付いた杖と外すと、ひと言、ふた言、声をかけて落ち着かせようとしていた。そして、玄関で顔面蒼白で震えている涼子をワゴン車に乗せ座らせると……。
 崎山は救急車と警察の到着を部屋の中で待っていた。

 あの時、室内に入って、血まみれのおばあさんを見た瞬間、涼子はショックのあまり頭の中がショートしたみたいだった。介護者として何かしなければならないはず……なのに身体が動かない。頭の中はパニック状態で《怖い、怖い!》と、ただ震えていた。
 崎山が部屋に入って、てきぱきとやってくれているのをただ茫然と眺めているだけ。――気がついたらワゴン車の座席で涼子は泣いていた。
 こんな意気地なしで、無能者だと思ってもみなかった。結婚まで断わって、人の心を踏みにじってまで、やりたいと思った介護の仕事なのに、ほんとうに必要とされる時に、自分は何も出来ないで……ただ震えて見ていただけだった――そんな不甲斐ない自分を知って、自己嫌悪で涼子は潰れそうになった。

 その後、救急車で病院に運ばれたおばあさんは、命に別条はないということだった。警察に逮捕されたおじいさんは、取り調べ室で事件の原因について「デイサービスにいくのを嫌がって、おばあさんが暴れ出したから、なだめてる内に、ついカッとなっておばあさんを殴ってしまった。その後は興奮して自分が何をやったのかよく覚えていない」と刑事に答えた。「おばあさんに酷いことをした。本当に申し訳ない……」とおじいさんは泣きながら謝っていたという。
 そして、近所へ事情聴取にきた刑事は、日頃から、おじいさんの献身的な介護振りを知っている近所の人たちから「どうか、おじいさんを許してやってください」と、口々に懇願されたという。
 昔気質のおじいさんは、『自分の女房の世話ぐらい、わしが看る!』と頑なにひとりでおばあさんの介護を頑張ってきたが、認知症が段々とひどくなって、真夜中の徘徊などで目が離せなくなった。その上、時々興奮して暴れ出すと手が付けられない。物を投げる、ひっかく、さらに噛みついたりして、おじいさんの生傷は絶えなかった。
 しかも、介護するおじいさんの方も、七十八歳という高齢者で持病をいくつか抱えていて健康体ではなかった。見るに見兼ねた近所の人たちが、デイサービスのことを教えてあげて、やっと利用するようになったのである。
 高齢者が高齢者を『介護』をすることは、精神的にも肉体的にも負担が大きく、ヘタをすると共倒れになり兼ねない状況なのである。

 ――高齢者の『介護』は、心だけでは支えられないことなのだ。



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   創作小説・詩

by utakatarennka | 2017-04-23 10:00 | 恋愛小説