かんどう脳 ③
第二話 金魚 ②
そんなある日、思わぬ事件が起こった。
晴れた日曜日の午後、和哉は鼻歌まじりに金魚の世話に余念がない。今日は水槽を洗うので、バケツの中に入れられ金魚たちは、一階の駐車場の外に置かれている。
二階のベランダで布団を干していた千秋の目に、電柱の陰に潜む野良猫の姿がチラッと映った。野良猫は金魚を狙って忍び足で近づいて来るではないか。もちろん千秋は夫に教える気などさらさらない。
なりゆきに目を凝らし、ひたすら傍観者の立場を貫いた。
猫が金魚の入ったバケツをひっくり返して大きな音がした。駐車場の中で水槽を洗っていた和哉が、異変に気づいて慌てて飛び出してきたが、時すでに遅く……二匹の金魚が無残にも猫の餌食になっていた。
「ちくしょう!」 和哉が大声で叫んだ。
一匹残った金魚を未練たらしく電信柱の陰から、まだチャンスを窺っていた猫に、和哉は手に持ったスポンジを投げつけた。飛び散った水に驚いて猫は一目散に逃げ去ったが、その後ろ姿にあらん限りの罵声を浴びせる夫だった。
二階のベランダから一部始終を見ていた千秋は可笑しくて、ププッと噴きそうになった。《ふん! いい気味だわ》内心、ほくそ笑んだ。まさに溜飲が下がるが思いだった。
――その晩、夫はすっかりしょげ返って……元気がない、目も虚ろだった。
いつもなら三膳はお代わりする夕餉のご飯も一膳しか食べず、フーと深いため息をついていた。まさか、こんなにショックを受けるとは想像していなかった千秋だが……さすがにちょっと可哀相になってきた。
食事のあと、水槽の前で、たった一匹だけ生き残った金魚を愛しそうに眺めている。《あなたは、そんなに金魚が大事なの?》そう和哉に訊いてみたかった。
なぜか? その夜、夫は千秋を抱いた。
セックスレスではないけれど――最近はめったに妻を求めてこなくなっていた。パチンコで大勝した。好きなサッカーチームが勝った。昇給した。子どもたちが早く寝た。エロなDVDを観た……そんな理由で夫婦はセックスをする。
もう子どもは要らないし、本当は女の子がもうひとり欲しいのだけれど……今の経済状態ではとても無理だと分かっているし、愛情を確かめ合うというよりも、存在を確認し合うような、そんなセックスだった。
「ねぇー」
久しぶりに夫に抱かれて、心が和んだ千秋。
「……ん?」
和哉の腕枕でちょっと甘えたい気分だった。
「金魚さぁー、一匹じゃあ寂しいからペットショップで買おうよ」
その言葉に、天井をジィーと見つめながら和哉が答えた。
「要らない」
「えっ?」
「あの金魚でないとダメなんだ」
「……どうして?」
「おまえは忘れたのか?」
「なぁに?」
ふたりが結婚して間もない頃だった。近くの神社で夏祭りがあると聞いて、ふたりは浴衣に着替えて出掛けていった。たくさんの夜店の屋台が立ち並び賑やかなお祭りに、新婚のふたりはぐれないように手を繋いで人波の中を歩いた。
綿あめ、たこ焼き、ヨーヨー釣り、お面屋さんをひやかしたりして、楽しいお祭り見物だった。
そこに夜店の金魚すくいがあった。大きな長方形のタライの中で金魚や出目金が涼し気に泳ぎ回っていた。小学生と大人四、五人、が楽しそうに金魚すくいをやっていた。
さっそく、千秋が「やりたい、やりたい!」と金魚すくいの紙のアミを買ってチャレンジするが、一匹もすくえず……あっという間に紙のアミが破れてしまった。
「あぁー、悔しい一匹もすくえないなんて……」
「あははっ」
悔しがる千秋を見て和哉が笑った。
「もう! 笑うんだったら、和哉さんもやってみせてよ」
プッとホッぺを膨らませて千秋が拗ねた。「分かった、分かった……」と和哉もアミを買って金魚すくいを始めたが……一匹もすくえない内に、紙のアミが半分ほど破れてしまっている。こんな薄い紙のアミでは金魚をすくうのは難しい。
「和哉さんだって、金魚一匹もすくえないかも……」
「待て待て! ここから本気を出すからー」
和哉は浴衣の袖を捲くって気合を入れた。
「あたしのために頑張ってね!」
「よっしゃー! 俺に任せろ」
そう言うと和哉は慎重にアミを使って、夜店の水槽の金魚をすくい始めた。
――そこから奇跡の逆転劇。なんと、半分破れたアミで金魚を見事に三匹すくってみせた。
「和哉さん、すごい、すごい!」
ビニール袋の中で泳ぐ、三匹の金魚を手に提げて千秋が歓喜の声をあげた。
「えへへ……」 褒められて和哉も嬉しそうに照れていた。
「半分破れたアミでも諦めたらダメなのね。これから長い人生、お互いに嫌になることもあるかも知れないけど、絶対に諦めないで和哉さんについていく。諦めたらお終いだって教えてくれたから――この金魚はふたりの愛の記念品だわ! ずっと大事に金魚飼おうねぇー」
「――あんとき、おまえがそう言ったんだ」
「…………」
「だから俺は金魚を大事にしてきた。なのに……今日二匹も死なせてしまった」
和哉は悲しげにため息をついた。
……なんてことだ。
千秋はすっかり忘れていた――。あの時、ふたりは同じものを見ていたはずなのに……同じ記憶が残っていない。忘れ去られたモノはなぁに?
恋人同士が結婚して夫婦になった、子どもが生まれてお父さんとお母さんになった、やがて、孫が出来れば、おじいちゃんとおばあちゃんと呼ばれる。そうやって、男女の愛はその形態を変えながら持続していくものなのだ。
やがて夫婦は家族という人生の墓標に刻まれて終焉を迎える。
――あの金魚はあと何年生きるんだろうか? 金魚の命より自分たち夫婦の方が危ういとさえ千秋は思った。
「金魚がいなくなっても、わたしたちには子どもがいるじゃないの」
「うん」
「金魚より子どもたちを可愛がってください」
「そうだなぁー」
千秋は久しぶりに和哉の手をギュッと握ってみた。
ゴツゴツした男の手だ、この手をずっと離さずにやっていけるのかな?
この頃は生活に疲れて相手を見ようとしない。自分の不満の鉾先を身近な人間のせいにして、それで何となく気を紛らわせている日々だった。
男女の愛に終わりがあっても、夫婦の生活に終わりはない。
夫婦ってなんだろう? 愛情がなくなっても暮らし続けなければならない男と女?
「もう寝ようか」
「うん……」
和哉が寝返りを打って背中を向けて眠り始めた。夫の寝息を聴きながら千秋も静かに目を閉じる。
プカリと水槽の中で金魚が泡(あぶく)を吐いた――。