水底の邑 ②
水底の邑 ②
――そして散々だった文学フリマでの収穫は、この『水底の邑』という本だった。
フリマ終了後、ブースを片付け帰り仕度をする、売れ残った大量の本は仕方なく持って帰ることに――。重いトランクを押して出口に向かうと、山積みされた本があった。『自由にお持ち帰り下さい』と紙が貼ってあったので、ちゃっかり一冊頂戴した。
サイズは文庫本、百ページほどの薄い本だった。自費出版で有名な出版社から発行されており、おそらく契約期限切れで返本されたものに違いない。私もメンバーたちも段ボールに詰まった返本の山を一冊でも売りたくて、文学フリマに参加したというのが本音だ。
この『水底の邑』の持ち主も本が売れず、送料を使ってまで送り返すのが面倒になり、ここに置いていったのではないだろうか?
誰も読んでくれない小説なんて、ゴミと同じだと自棄(やけ)を起こしたのかもしれない――その気持ち分からなくもない。
その後、しばらく文学フリマでの出来事に苦心していたため、本の存在すら忘れていたが、本棚を整理したら出てきたので読んでみた。『水底の邑』のストーリーはこうだ。
都会の生活に疲れた、ひとりの青年が幼い頃に遊びに行ったことがある、山奥の祖母の家を訪ねた。だが、有ったはずの祖母の住む村はなく、今はダム湖に沈んでいることを知る。
帰りのバスに乗り遅れた青年は仕方なく、近くの小屋で一夜を明かすことに。夜半、寝ているとダム湖の水底から、誰かの呼ぶ声が聴こえてくる――ここまで読んでホラー小説かと思いきや、青年は声に導かれるままダム湖の水中の村へと潜っていく。突然、ファンタジーに変わった。
水底の村では、亡くなっていた祖母や村人たちが生きていて、元気に田畑を耕し幸福そうに暮らしていた。
村人に歓迎された青年はやがて村娘と夫婦になり、水底の村に残ることになったが一年を過ぎた頃、平和で退屈な暮らしに厭き厭きして、こっそり都会へ逃げ帰ろうとする。結局、村人に捕まってしまい、青年は水底の村で重い鉄の足枷を付けられて、一生浮上出来なくされてしまうという顛末だった。
不条理な話だと思いながら最後まで読んでしまった。ちょっと安部公房の『砂の女』に似たストーリーだ。
『水底の邑』を読み終えた感想は、あまり上手くない小説だと思った。
たとえば、文章の語尾は「だった。」と「でした。」の連続だし、接続詞は「そして」と「しかし」の2パターンしかなく、単調で稚拙な文章、読点や句読点が曖昧、改行が少ないせいで読み難くかった。
純文学風だが、語彙力が乏しく、素人の自分からみても実力不足を感じさせた。
ここからは私の想像なのだが、この小説はパソコンのワード書いたものではなく、手書きの原稿用紙から起こしたものではないかと考察される。会話文の堅苦しさや古臭い表現などから高齢者が書いた小説のようだ。
たとえば男女二人連れをアベックと書いたり、電話のダイヤルを回すと表現したり、作中の文章「村娘がシミーズ姿で僕を誘惑するのだった」など、昨今シミーズなどという女性下着の名称をあまり聞かない、今どきスリップという。
おそらく昭和三十年から四十年代にかけて、リアルタイムで書かかれた小説ではないだろうか?
きっと若い頃に書いた、この小説を誇りにして生きてきた人ではないだろうか。高齢になり人生の終焉が近づいて……自身の墓標として、この本を自費出版したのかもしれない。
若気の至りで書いたこの小説が作者の青春そのものだった。書いている最中は苦しくとも、何もかも忘れて夢中になれる。――たとえ読者に伝わらなくとも、その作品の良さを誰よりも分かっている。自分の作品が一番面白いと思っているのは、他ならぬ自分自身なのだから。思い上がりだとしても、そう思わないと文章なんて一行だって紡げない。
書き手の諸々の思いを散りばね完成したのが、この『水底の邑』という小説なのかもしれない。
著者は阪口時男(さかぐち ときお)。小市民観漂うペンネームだ。おそらく本名ではないだろうか。
『水底の邑』の舞台は京都の片田舎になっている。
淀川本流に建設されたダムは空想上だと思うが、地理や風景描写から天ヶ瀬ダムではないかと私は推測した。この作品を書くにあたって、この作者も一度ならず訪れたであろう、ここ天ヶ瀬ダムの上に私も立っている。
――そしてこの旅の終わり、この本をダム湖へ投げ落とそうとしている。
一昨年、私は眼の病気で手術をした。片目の視界が悪くなってしまい、もう創作は止めようかと思った。私は仕事を持っているし、これ以上無理はしたくない、しょせん趣味だから――そう分かっていても、止められなかった。
創作することは、私にとって業(カルマ)なのだ。それを背負わなければ、自分自身の重みすら感じることができない、唯一無二の存在理由だから、ただ書くことが止められず、創作という呪縛から逃れられない、私こそが『水底の邑』の住人なのだ。
やがて『水底の邑』は私の手を離れて、小鳥にように羽ばたきながらダム湖へ落ちていった。
文学フリマのブースに並べられた数多の名もない本たちよ。
誰にも読んでもらえず、理解されず、賞賛もされない。作者の思いだけを封じ込めた素人文学のページ、見果てぬ夢が瞬きながら深いダム湖へ沈んでいく――。
たとえ報われなくとも、光の届かない水底で足掻き続けていこう。